樋口有介 11月そして12月 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)公孫樹《いちょう》の葉の青さに、 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)海老|焼売《シューマイ》と -------------------------------------------------------     1  公孫樹《いちょう》の葉の青さに、ふと季節感が混乱した。湿度の低い光が穏やかに拡散し、セピア色の空気をアシナガ蜂の羽音が低くかき回す。舞いあがる枯葉はなく、『高田馬場一丁目公園』と書かれたコンクリート柱も、欠伸が出るほどの灰色に静まり返る。  明治通りは越えたはずだから、池袋と新宿の中間あたりだろう。十一月になっても日射しはなめらかで、狂い咲きのタンポポが眩しく黄色い花を震わせる。風もブルゾンのジッパーを掛けるほどではなく、花の終わった木犀《もくせい》の枝が長く西日を引きずっている。小鳥も仔猫も子供もいなくなり、背広やビニールサンダルが足早に敷地を横切っていく。ぼくはベンチから腰をあげる気にならず、カメラの標準レンズを左手に、もう三十分も疲れた足を投げ出していた。  今日は朝の十時に浦和の家を出て、収穫のないまま上野から高田馬場まで歩いてしまった。湯島天神や伝通院ではカメラを構える場所に不自由しなかったが、『都会の生き物』というテーマでは納得できる被写体に出会えなかった。電信柱にはカラスが止まっていて、百舌《もず》もアキアカネも予想以上に東京の空を飛んでいる。それでも並木の桜に毛虫の姿はなく、用水に渦を巻く蚊柱も見当たらない。昆虫や動物を撮《と》りはじめたのは今年の三月だから、冬の東京にどんな生き物が待っているのか、楽しみでもあり、不安でもある。  日だまりの砂場からスニーカーの先に目をやって、地面を這う黒い虫が目にとまり、驚きを感じながら、ぼくはアングルファインダーを取り出してカメラにセットした。レンズで追いはじめた虫は長さ二センチほどで、腹のくびれや触角の動かし具合はオサ虫かゴミ虫の類いだ。夏場なら空地やゴミ捨て場でいくらでも見かける昆虫だが、こんな季節にのんびり公園を散歩している光景には、あまり馴染みがない。図鑑にのっていない新種ということもないだろうから、天候のせいで血迷ったか、都会に合わせて無頼に生きる気にでもなったのか。最近は浦和の用水路にもカワセミが棲《す》んでいるし、フィリピンからアカバネアゲハという熱帯蝶も迷い飛んでくる。十一月にゴミ虫が一匹ぐらい高田馬場を歩いていても、もしかしたら、驚くほどの現象ではないのかも知れない。  アングルファインダーを構えたまま、腰を屈めてマクロ撮影をつづけていたとき、白い影がレンズを横切り、次の瞬間、鼻面の黒い丸い目が、無礼にも反対側からカメラを覗いてきた。一瞬ゴミ虫が変身したのかと思ったが、そうではなく、ファインダーから目をあげたぼくの顔を、フランスパンほどの白い犬がとぼけた目で見返していたのだ。似たような白い犬はほかにも二匹いて、声を出しかけたときには、被写体だった昆虫はもう犬たちの玩具にされたあとだった。せっかく生活を変えようとしたのに、ゴミ虫にはやはり、季節はずれの東京は住みにくい環境だったらしい。  視界にコーデュロイパンツとショートブーツのつま先が割り込んできて、そのときになってやっとぼくは納得した。アルプスの草原ではあるまいし、こんな仔犬が三匹も自由行動をしているはずはないのだ。犬たちの首からは細い紐が伸びていて、紐の先が爪をきれいに切った指の長い手に握られている。それだけでも息が詰まりかけたところに、さっきの犬がレンズの先をぺろりと舐《な》め、ついにぼくは、地面に尻餅をついてしまった。 「あ、その……ごめん」  昆虫の撮影を邪魔され、七万五千円もするレンズをぺろりとやられたのに、ぼくのほうが謝ってどうするというのだ。  犬の紐を握っていたのは、ちょっと傲慢な目をした顔の小さい女の子で、ぼくの挨拶にも眉をしかめて、ほんの少し口をすぼめただけだった。ぼくが慌てているのも、地面に尻餅をついているのも、本当は彼女の側の責任だというのに。  三匹の仔犬が女の子の足元にじゃれていき、ぼくも地面から腰をあげて、ジーパンの尻を、掌でそっと払ってやった。抗議の行動としては、それが精一杯の意思表示だった。 「あんた、変わってるわね」と、足に犬をじゃれさせたまま、距離をつめずに、女の子が言った。 「うん」 「うん?」 「ゴミ虫を撮ってた」 「ふーん」 「オサ虫だったかも知れない」 「カメラマン?」 「アマチュア」 「虫なんか撮ってどうするの」 「写真集を出す……いつか、さ」  女の子が肩を丸め、短い髪をふって、二重の目のバランスを、怒ったように歪めてみせた。小さい顎に小さい鼻に、目だけが大きく、普通にしていても怒っているように見える顔だった。  ぼくにはもう言葉が見つからず、仕方なくベンチに戻って、犬に舐められたレンズをガーゼで拭きはじめた。意識は彼女のほうに向いているのに、言葉も表情も、頭からはなにも出てきてくれない。自律神経が混乱したのか、腋の下から冷たい汗が流れ出す。  レンズを舐めた犬が顔をあげ、もがきながら紐を引いて、ぼくの足元にまとわりついてきた。犬に好かれる体質でもないはずだから、スニーカーが気に入ったかカメラが気に入ったか、そんなところだろう。ぼくはお愛想にカメラを向け、一つシャッターを切ってやった。  女の子が犬たちを宥《なだ》めながら、手シャベルとビニール袋を地面に置き、鉄棒の端に紐を結んで、ため息をつくように肩で深呼吸をした。 「たまには散歩をさせないと、この子たち、ヒステリーを起こすの」  返事をするべきか、しばらく迷ったが、動悸と耳のほてりを我慢して、ぼくが言った。 「うちでも昔は、犬を飼っていた」 「そう」 「テリアの雑種」 「もう居ないの」 「中学のときに死んだ」 「病気?」 「交通事故」 「犬も大変よね。東京では独《ひと》りで歩くこともできなくて」  女の子がベンチの向こう側に腰をのせ、足を組んで、カーディガンのポケットから取り出したタバコに、使い捨てのライターで火をつけた。十七、八かと思っていたが、横顔の口の結び方や耳たぶに光るピアスは、もう二十歳を過ぎているようだった。 「カメラを舐めたのがパピヨン。毛が茶っぽいのがペキニーズで、もう一匹がビション・フリーゼ」  犬の種類を言ったにしても、聞いたところで、ぼくに分かるはずはない。喋り方に熱意のようなものはなく、返事を期待している表情にも見えなかった。風が出ていて、もう少しで日が沈む曖昧な時間には、ぼくだって一人ごとを言いたくなることはある。 「最近やっぱり、不景気なのかな。この子たちもなかなか買ってもらえない」 「君の犬では、ないのか」 「売り物よ。以前なら仕入れてから、一ヵ月もお店に居なかったのに」  みな同じように白くて、似たような丸っこい犬ではあっても、言われてみれば、それぞれに顔立ちや毛並みは異なっている。首をつないでいる紐も家庭用の犬鎖とは違うようだし、首輪には鑑札も見当たらない。犬たちが売り物なら、彼女はペットショップの店員かなにかだろう。  女の子がタバコを弾いて、ショートブーツの底で踏みつぶし、両手をカーディガンの腋の下に挟みながら、ベンチの背もたれに軽く寄りかかった。華奢な顎《あご》のわりに肩の線は骨張っていて、首筋には不似合いな日焼けのあとが残っていた。  突然やって来た居心地の悪さが、可笑しいほど明快で、ぼくは冷汗を抱えたまま、カメラを構えて鉄棒の前へ歩いていった。空はまだ明るく、露出の切り換えもフラッシュも必要ない。飼われている生き物を撮る趣味はなくても、女の子に話しかける言葉が見つからなかった。  犬の視線と同じ位置から、十枚ほどシャッターを切り、三匹の種類差をやっと納得しかけたとき、女の子が足を組みかえ、ベンチに座ったまま声をかけてきた。 「あんたの家、この近く?」 「遠くはないかな」 「パピヨン、あんたのことが気に入ったみたい」 「スニーカーが気に入っただけさ」 「十五万円よ」 「なにが」 「犬」 「そう、か」  犬を売りたいなら、まったく、もう少し愛嬌のある言い方をすればいいのに。 「ペキニーズが十四万で、もう一匹が十六万」 「カメラより高いな」 「お店の人に言えば値引きしてくれると思う」 「犬は飼いたくないんだ、猫も鳥も熱帯魚も」 「動物、嫌い?」 「好きだけど、人間に飼われて、彼らが幸せになるとは思えない」  犬たちにカメラを向けながら、本当はなん枚か彼女に焦点を合わせていたが、気がついていないのか、女の子は不遜な目でただじゃれ回る犬を眺めているだけだった。コーデュロイパンツに生成りのカーディガンという、どこにでもある服装なのに、どこにでもいる女の子とは、どこかに少しだけ違う主張をもっている感じだった。 「君、ペットショップに勤めているの」 「アルバイト」と、腕組みを解きながら、欠伸をするような声で、女の子が答えた。 「動物が好きなんだ」 「人の相手をするより楽なだけ」  終ったフィルムを巻き戻しにセットし、鉄棒の柱に寄りかかって、意識的に、ぼくは肩の力を抜いてみた。 「ぼくも、人間は苦手だ」 「カメラをやる人って、ネクラだもの」 「そうかな」 「虫なんか撮って、ネクラに決まってる。最初はあんたのこと、頭のおかしい人かと思った」 「今の季節、ゴミ虫やオサ虫は珍しい」 「あんたも珍しいわ」 「晴川柿郎」 「ん?」 「ぼくの名前」 「そう」 「君は?」 「どうして」 「ただ、その、なんとなく」  女の子が頬をふくらませて、息を吐き、反動と一緒に、怒ったような顔でベンチから腰をあげた。それからぼくと入れ違いに鉄棒まで歩いていき、犬の紐をほどいて、腰も屈めずに地面からシャベルとビニール袋を拾いあげた。 「犬を飼う気、本当にない?」と、額の前髪を振り、ぼくの顔を見おろすように、女の子が言った。  風圧に押されて、ぼくの足が、自然に女の子から離れていく。 「死なれるのって、困るしな」 「十年は生きるのに」 「それでもぼくよりは先に死ぬ」 「この子たち、来週は問屋に返されるの。仔犬として売るには大きくなりすぎたから」 「自分で飼えばいいさ」 「アパートだもの」 「問屋に返されたら、どうなるんだ」 「ハンバーグにはされないだろうけど、邪魔にされるわね。この子たちの責任ではないのに」  ぼくの責任でもないはずだが、彼女の言い方がぼくを責めているような気がして、ぼくは、なんとなく恐縮した。ペットショップで売れ残った犬にまで責任を取れと言われたら、世の中のすべての不幸が、ぼくの責任になってしまう。  女の子が犬たちに声をかけ、一つ背伸びをして、横に向いていた肩を、半分だけぼくのほうにふり向けた。 「この子たち、あんたの写真を邪魔した?」 「レンズを舐められたのには、びっくりした」 「謝ったほうが、いい?」 「たぶんな」 「それなら謝るわ」 「うん」 「わたし、山口明夜」  さっきは無視したのに、なぜ突然、名乗る気になったのだろう。 「明るい夜と書いてアキヨと読むの。変でしょう」 「そうでも、ない」 「気が変わったらパピヨンを買いに来て」 「気が変わったら、な」 「寒くなってきた」 「そうだな」 「じゃあね」 「うん」  女の子が肩を回しながら、唇をかすかに笑わせ、背筋を伸ばして、犬たちに引かれるように北側の出口に歩いていった。華奢なわりに重心の高い、膝をまっすぐに伸ばした軽快な歩き方だった。その歩き方とふて腐れたような表情が変にアンバランスで、白いカーディガンが公園から消えていくまで、立ったまま、ついぼくは見惚れてしまった。女の子もパピヨンもなんとかフリーゼも、最後までふり向いてくれなかったが、気持ちは、素直に充実していた。一週間前に測量助手のアルバイトをやめてから、家族以外で口をきいたのは彼女が初めてだった。それも動物に対する価値観まで話し合い、名前まで聞いてしまった。公園で出会っただけの女の子とこれほど決定的な交流をしたのは、ぼくの二十二年の人生では、初の快挙だった。  ぼくは茫然としている頭を、拳でこつんと叩いてやり、ベンチに戻って、カメラやアングルファインダーをバッグの底に仕舞い込んだ。風は穏やかだったが、空気は冷たくなっていて、日足を伸ばしていた太陽も建物の西側に低く身を隠していた。暮れのこりの空をカラスが高く飛び、明治通りを走るクルマの音が聞こえ、それでも公園を横切ってくる人影は見当たらない。犬にレンズを舐められたことも、山口明夜に会ったことも名前を聞いたことも、ベンチで居眠りをしていた間の夢だったのかと、一瞬ぼくは不安になった。  バッグを担いで、立ちあがり、そのときぼくは、スニーカーの爪先にタバコの吸い殻を発見した。潰れているのは火種の部分だけで、フィルターにはピンク色の口紅が頼りなく残っている。山口明夜という女の子は、そういえば、うすくピンク色の口紅をつけていた。  ぼくはバッグを担ぎなおし、背中に内側からの熱を感じながら、その吸い殻をぽーんと蹴飛ばしてやった。砂埃が足元をうしろに流れていき、クルマの音に混じって、空の低いあたりからカラスの鳴く声が聞こえていた。行く当てもないのに、家に帰る気分にもなってくれない。一人で酒を飲む習慣はないし、会いたい友達もいない。大学に入った年にしばらくつき合った女の子の顔が思い出されたが、会ったところで、お互いに話すことはない。彼女にとってぼくが『退屈な人』であることは、一年の時間が過ぎても同じことだろう。 「明るい夜と書いて、アキヨと読む……か」  背中にまた汗がにじんできて、青すぎる公孫樹の葉を見あげながら、大きく、ぼくは深呼吸をした。     *  高田馬場で『博士の異常な愛情』と『ロミオとジュリエット』の二本立て、という凄い映画を観てしまったおかげで、浦和の駅に戻ったときには十時になっていた。太田窪《おおたくぼ》の家はぼくが三歳のときに建てたという。それ以前は品川の都営住宅に住んでいた。昔からたいして変化のない町で、とくに駅の東側は再開発の気配すら見られない。親父も姉貴も勤めは都心。家の近くに運動公園や競馬場はあっても、ほかに名所旧跡があるわけでもない。地元に愛着を感じるには、浦和という町は東京に近すぎる。  改札を東口に出て商店街のほうに歩きかけたとき、うしろからカメラバッグの肩紐を掴んだやつがいて、失礼にも、黙ってぼくの足を引き止めてきた。  立っていたのは姉貴で、ワンレングスの髪を耳のうしろに掻きあげながら、皮肉っぽい目でかすかに口の端を歪めていた。 「さっきから合図してたのに、シロウ、なにを気取ってるのよ」 「気がつかなかった。気取ってたわけでは、ないんだ」 「あんたって注意力が不足しているわ。男なら少しは毅然としなさいな」  大きなお世話だし、それに注意力が足りないことと毅然とすることの間に、論理的な関連があるようにも思えない。顔には出ていないが、姉貴は酒を飲んでいるらしく、素面《しらふ》のときよりも両目の位置が少しまん中に寄っていた。 「そんなバッグを持って、またカメラで遊んできたんでしょう」 「姉さんより趣味はいいさ」 「なんのことよ」 「姉さんみたいに、男で遊ぶよりはさ」  ひそかに反論を期待したのに、どういうわけか、今日に限って、姉貴は唇を噛むように軽く口を結んだだけだった。仕事で疲れているのか、酒を飲みすぎたのか。しかしそれにしては、目が怒っている。 「シロウ、あんた、暇でしょう」 「家へ帰るところだもの」 「ちょっとつき合いなさいよ。わたし、今日はこのまま家に帰りたくないの」  やばいな、とは思ったが、素直に帰りたくないのはお互い様で、こんな時間に駅で捕まってしまったのも、姉弟《きょうだい》の因縁というやつだろう。それに姉貴には、たまに金を借りる義理がある。  もう出口に向かいはじめた姉貴のあとを、ぼくも黙って歩き出し、今日一日が平和に終わりそうもない予感に、うっすらと寒気を感じた。姉貴も酒を飲んで説教さえしてくれなければ、姉弟として、つき合いにくい相手ではないのだが。  東仲町商店街を抜けて姉貴がぼくを連れていったのは、路地の奥に暗い電気看板が出ているだけの『ロックンロード』というスナックだった。二度ほど一緒に来たことがあって、噂では昔、マスターは暴走族だということだった。姉貴も常連ではないというが、どこへ行っても常連客のようにふる舞える性格は、弟として尊敬していないわけではない。  ぼくをカウンターの一番奥の椅子に押し込み、マスターと五分ほど『F1』の議論をしてから、水割りのグラスを分配して、姉貴が言った。 「今日エッセイストの森海生に会ったのよ。うちの雑誌に連載を頼もうと思ってね。そしたらあいつ、連載一回について一発やらせろだって。噂は聞いてたけど、あれほど厭《いや》なやつだとは思わなかったわ」  姉貴の仕事は二十代後半男性向け総合月刊誌の編集で、その雑誌はヌードとクルマと政治とセックスが混沌と詰め込まれているから、親父もぼくも、お袋には知られないところで密かに愛読している。海外取材に出かけたりアダルトビデオの撮影現場に潜入したり、うらやましいような仕事だ。それでもストレスはたまるらしく、ぼくを相手に愚痴を言うのも、姉貴にとっては手軽な娯楽らしかった。 「姉さん、一発を、OKしたんだ」と、つきだし[#「つきだし」に傍点]に出たピーナツを齧《かじ》りながら、グラスに口をつけて、ぼくが訊《き》いた。 「冗談じゃないわよ。あんなにやけた男に安売りするもんですか。プロレスラーを相手にオカマでも掘ってろと言ってやったわ」 「連載は取れなかったのか」 「それがね、わたしの心意気が気に入ったって、半年分の原稿を約束したの。どうせ時間をかけて口説く魂胆なのよ。向こうがそのつもりならこっちも下心を利用してやるだけ。最後には思い知らせてやるわ」  一度姉貴のペースに引き込まれたら、森海生というエッセイストも、たぶん無傷では済まされない。姉貴に係わって痛い思いをした男を、子供のころから、なん人見てきたことか。 「今度だけは許せないのよ。ねえシロウ、わたしいつか、あいつを殺すかも知れないわ」 「仕事は取れたんだし、殺す必要までは、ないさ」 「森海生のことじゃないの。高橋の話。奥さんに子供を産ませるなんて、許せると思う? それも双子《ふたご》だなんて……」  どこで話題を変えたのか、怒っているのは仕事の相手ではなく、高橋睦夫という恋人のことらしい。詳しいことは知らないが、その男はアパレルメーカーの専務かなにかで、もうなん年か姉貴とは不倫の関係をつづけている。不倫だから女房子供がいるのは当然だ。それを今更『許せない』と言われても、相手のほうが困るだろう。 「わたしにはいっさい相談なし。離婚の準備をしているなんて、先月まではそう言ってたの。離婚の準備をしている男がどうして子供をつくるのよ。どうして双子なんか産まれるのよ」 「双子というのは、ちょっと、大変だな」 「そうでしょう。これで子供は三人よ。口では奥さんと別れるなんて言うけど、信じられると思う? わたしの青春はどうしてくれるのよ」  駅で会ったときから、なるほど、姉貴の目つきに不穏な気配が漂っていたはずだ。 「わたしを裏切ったら高橋の人生を目茶苦茶にしてやる。奥さんも子供も、ぜったい許さない」 「冷静になれよ」 「軽く言わないで。奥さんと別れると言うから、今までつき合っていたんじゃない」 「別れると言うなら、待つしかないさ」 「だけど双子までつくって、どうやって別れるのよ」と、下から流し目を送り、赤く塗った唇を歪めて、姉貴が言った。「奥さんと別れるつもりの人が子供なんかつくる? わたしの立場はどうするの。わたしがおろした子供にはだれが責任とるのよ」 「姉さん……」 「なによ」 「子供って?」 「わたしと高橋の子供。今年の春におろしたの」 「知らなかったな」 「仕事でベトナムに行くと言った、あのとき。本当は千葉の病院に入院していたの」  こういう告白は、深刻にされても困るが、気楽に言われても返事に詰まってしまう。  肩に疲れが出て、背中が痛くなって、それでもぼくは、なんとか言葉を探し出した。 「ぼくに言えば、よかったのに」  姉貴が目の端にぼくの顔を引っかけ、小鼻の横に皺をつくって、しゅっと鼻水をすすりあげた。 「シロウに言ってどうするのよ。あんたが頼りないからわたしが不幸になるんじゃない。高校も中退。大学も中退。仕事もしないでカメラなんかいじってて……」 「今はその話ではないさ」 「ぜんぶ関係あるのよ。わたしの今の状況は家族としての歴史なの。あんたが頼りなくて、親父が浮気をしていて母さんがカルチャーセンターに狂っていて、そういうことの帰結としてわたしの人生があるの。家庭の不幸と社会の不幸を、わたしが一身で背負ってるんじゃない」 「一身に背負うのは大変だ」 「そう思うならなんとかしなさいよ。高橋の家に乗り込んで、わたしの代わりに談判してきてよ」 「それは問題が、違う」 「違っても違わなくても、なんでもいいの。わたしが幸せになればそれでいいの。あんたはあいつの奥さんをクルマで轢《ひ》き殺してくればいいのよ」 「姉さん、飲みすぎだ」 「こんなときに飲まなかったら、お酒なんて一生飲めないわ」 「その……」と、耳たぶが赤くなった姉貴の横顔を、混乱して眺めながら、ぼくが言った。「父さんが浮気してるって、どういうことさ」 「知らなかったの」 「浮気するタイプには見えない」 「二十二にもなってなにを考えてるの。世の中に浮気をしない男が、一人でもいる?」 「父さんには、だけど、似合わないな」 「甘いわねえ。あんたって注意力が足らないのよ。母さんがお風呂に入っているとき、親父、だれかにこっそり電話してるでしょう。あれが仕事の相手だと思う? わたしの目は誤魔化せないわよ。シロウや母さんとはキャリアが違うんだから」 「キャリアは、たしかに、違う」 「どうでもいいけどね。でも家にもめ事[#「もめ事」に傍点]は持ち込んでほしくないわ。いい歳をして浮気だとか不倫だとか、みっともないったらありゃしない」  浮気だとか不倫だとか、一生懸命もめているのは姉貴のほうではないか。自分のことは柵にあげ、他人に対してだけきっぱりと客観的になるところが、キャリアの違いというやつか。 「姉さん、昔うちにいた松五郎、テリアだったよな」と、なんとなく自棄《やけ》になって、グラスを飲み干し、ウイスキーを足しながら、ぼくが言った。 「なんの話よ」と、唇にグラスを押しつけたまま、切れ長の目と首のネックレスを光らせて、姉貴が言った。 「十年前に交通事故で死んだ、あの犬さ」 「どうだったかしらねえ。スピッツと野良犬の雑種じゃない。松五郎なんて名前だったかしら」 「テリアの雑種だった」 「それがどうしたのよ。今の問題は高橋のことでしょう。あんた、わたしが殺人犯になればいいと思ってるの」 「姉さんがどうして殺人犯になるのさ」 「高橋を殺して、あいつの奥さんも子供も殺して、わたしは東京タワーから飛び降りてやるわ。そうしたらシロウ、あんたは殺人犯の弟になるのよ」 「父さんと母さんは、喜ばないな」 「まじめに聞きなさいよ。今が家庭崩壊の危機だということ、あんた、まるで分かってないじゃない」  親父が浮気をしていて、姉貴が不倫の相手やその家族を殺して自殺でもすれば、それはまあ、家庭崩壊の危機ではある。しかし親父の浮気が本物であるはずはないし、姉貴も酔いが覚めたあと、まだ高橋という人を殺す気になるとも思えない。 「それで、ぼくに、どうしろって」と、ウイスキーの舌ざわりを意識しながら、無理やり肩の疲れを忘れて、ぼくが言った。 「だから言ってるじゃない。高橋の家に乗り込んで、奥さんと話をつけてくるのよ」 「ぼく……が?」 「そんなみっともないこと、わたしにやれると思う?」 「姉さんがみっともなければ、ぼくだってみっともないさ」 「あんたは平気よ。どうせ暇なんだし、生きてること自体がみっともないんだから」  たまに金を貸してくれるからって、その論理はあまりにも不公平だ。だいたい姉貴には自分の理屈だけ、根拠もなく、不当に信じるところがある。 「やっぱり、それ、姉さんの問題だと思うけどな」 「晴川の家が目茶苦茶になることが、どうしてわたしだけの問題なのよ」 「惚れたり、結婚したり別れたり、そういうのは個人的な問題さ。今までも姉さん、うまく処理してきたじゃないか」 「今までは、だって……」 「だれも姉さんのキャリアには敵《かな》わない」 「だけど奥さんが双子まで産んだのよ」 「姉さんが頑張れば、五つ子だって産めるさ」 「シロウ、あんた……」  グラスに押しつけられていた姉貴の唇が、いやな形に震えだし、身構える間もなく、焦点のずれた目から呆気なく涙がこぼれ出した。感情の起伏は大きいほうだろうが、これほど簡単に涙を見せる姉貴には、あまり記憶がない。 「分かった。今までとは、違うんだよな」と、取り出したハンカチを姉貴に渡し、急いで水割りを飲み干して、ぼくが言った。 「シロウ、わたしの言うこと、聞いてなかったのね」 「聞いてはいたけど、複雑すぎて理解できなかった」 「簡単なことじゃない。あいつ、わたしと結婚する気なんか無かったのよ。奥さんとも別れないつもりなの。この三年間わたしを騙してきたの。わたしの子供はおろさせて、奥さんには双子まで産ませたの。人間として許せないと思うの、当然でしょう?」 「だからぼくを殺人犯の弟にするのか」 「そうならないために頑張れって、そう言ってるのよ」  酔ったせいで論理が混乱しているのか、最初からぼくに責任を転嫁するつもりなのか、姉貴の涙を見ても、まだ判断し切れない。ぼくが頑張ったからって問題が解決するはずはないし、もともと不倫や浮気は、問題が解決しないから生まれる状況なのだ。二十七年も無茶をつづけてくれば、姉貴にだって、少しぐらいつけ[#「つけ」に傍点]も回ってくる。 「なあ、姉さん……」と、半分呆れながら、それでもどこか気の毒で、ぼくが言った。「具体的に、高橋さんとは、どういう話なのさ」 「奥さんとは別れる、それまで待て。高橋はそればっかり」 「待つ気があるの」 「本当に別れるなら、そりゃあ、待ってもいいけど」と、ハンカチで鼻水を押さえ、視線をカウンターの向こうに巡らして、姉貴が言った。「最初は信じていたわよ。自信だってあった。でも三年も待たされて、双子まで生まれて、どこまで信じていいか分からなくなった。わたしだってさ、それほど若いわけじゃないし」 「気持ちでは高橋さんを信じたいわけか」 「信じられれば……ね」 「高橋さんて、何歳《いくつ》?」 「四十二」 「四十二で専務なんだ」 「二代目よ。アパレルも景気が悪いから、気が弱くなってるのかも知れない」 「奥さんに会ったことは?」 「ないわよ。いいところのお嬢さんらしいけど、平凡でつまらない女だって」 「歳をとると、平凡な女の人のほうが、男には楽だ」 「どういう意味?」 「テレビでそういうドラマをやってる」 「わたしだってね、このままでいいとは思わないわよ。あんな男、その気になればいつでも奥さんに返してやれるのよ。だけどまだ決心がつかないの。高橋の本心がよく分からないの」  姉貴をここまで振り回す高橋さんも、考え方によっては、ずいぶん大物だ。常識的には時間が解決する問題だろうが、時間にばかり期待していると、姉貴もすぐ三十になってしまう。 「そういえば、姉さん、思い出した」と、二つのグラスにウイスキーを注ぎ足し、今夜はこのまま酔うことに決めて、ぼくが言った。「東京タワーには、飛び降りる場所が無かった」 「あら、どうして?」 「姉さんみたいな人がいるから、用心したんだろうな」 「東京タワーじゃなければ飛び降りたくないな。高島平なんて格好悪いもの」 「三角関係のもつれなんて、みんな格好悪いさ」 「あんた、こういうときだけ冷静なのねえ」 「姉さんに妻子もちの中年男は似合わない、そう思っただけさ」 「わたしだってそうは思うわよ。でも理屈どおりにいかないのが男と女なの。シロウにもそのうち分かるようになるわ」  ウイスキーがなくなって、姉貴がバーボンのボトルを追加し、ついでにカウンターの中に、海老|焼売《シューマイ》とレバーのにんにく焼きを注文した。目からは涙も消え、鼻水もおさまり、今夜は気が済むまでくだ[#「くだ」に傍点]を巻くことに決めたようだった。 「そうか、東京タワーには、飛び降りる場所がないのか……」と、新しいボトルの封を切りながら、自分の手元に目の焦点を合わせて、姉貴が言った。「いつもわたしだけ不幸なのよね。東京タワーにまで嫌われたわ」 「生きてればいいこともあるさ」 「あんたは気楽よね。親父もお袋もシロウには期待しない。社会にも家族にも責任はない。少しは申しわけないと思うでしょう」 「少しは、な」 「あんたと人生をとり換えたいわ。いつも勝手なことをして、だれからも文句を言われない。高校なんか中退したら、本当は日本にだって住めなくなるのよ」 「大検を通るのに苦労したさ」 「大検を通ってせっかく大学にも入ったのに、また二年でやめたじゃないの。カメラマンになりたければ専門の学校もあるわ。あんたが本気ならプロのカメラマンだって紹介してあげるわよ」 「他人に教えてもらう必要は、ない」 「生意気を言うんじゃないの。学校を出たって仕事がないのに、自己流でプロになんかなれるもんですか」 「プロになろうとは、思っていないさ」 「それじゃ何なのよ。ただの趣味?」 「趣味とか、仕事とか、そういう分け方はしたくない。人生のトータルとして考えたいんだ」 「馬鹿ねえ。そういうのを趣味っていうんじゃない」  平らな眉間に皺をつくり、突き出した顎に力を入れて、姉貴が大袈裟に、鼻から息を吐いた。 「少しは現実を直視しなさいよ。人生はシロウが思ってるほど甘くないのよ」 「姉さんの生き方を見て、勉強はしている。もがけばもがくほど泥沼に嵌まるのも、人生なんだよな」  いつもはこんな反論はしないのに、ウイスキーが自制心を弱めていたし、今夜は姉貴につき合うと決めた以上、ぼくにしても戦いの準備は必要なのだ。姉弟としての力関係は明白で、ぼんやりしていたら、ぼくのほうが一方的に押し切られる。 「あんたはね、シロウ……」と、出来あがったレバーのにんにく焼きにフォークを突き立て、ワンレングスの髪を振りながら、姉貴が言った。「自分の幸運を家族に還元する義務があるのよ。時間と誠意をわたしに提供する義務があるの。わたしの人生が崩壊したら、あんたの人生もそれで終わってしまうのよ」 「そこまでは考えなかった」 「子供のときに、迷子になったあんたをいつも捜してやったのは、わたしじゃない」 「姉さんには昔から感謝している」 「高校のときだって友達の妹を紹介してやったでしょう」 「あの子には彼氏がいたけどな」 「奪い取る気力がなかったの。あんたには勇気がなかった。努力もしなかった。だから一度ぐらい勇気を見せなさいよ。高橋の奥さんに会ってきてよ」  どうも、姉貴はぼくの言い分を聞いていないようで、よほどウイスキーが回っているのか、高橋さんとの関係でパニックでも起こしているのか。姉貴をここまで混乱させる高橋さんというのは、どんな人なのだろう。 「脅かすわけじゃないけど、シロウ、あんたも殺人犯の弟になんか、なりたくないでしょう」 「その話は終わった」 「それじゃなに、わたしに、一人で東京タワーから飛び降りろというの」 「東京タワーの展望台には、ガラスが張ってある」 「あら、あんた、わたしが高島平で自殺すればいいと思ってるの」 「姉さんに高島平は似合わないし、自殺もしてほしくないさ」 「それじゃどうすればいいのよ。高橋の奥さんは、なんで双子なんか産んだのよ」 「神の試練だとでも思うさ」 「冗談じゃないわよ。神様ってそんなに馬鹿なの。試練ならシロウに与えるべきじゃない。わたしは二十七年間真面目に生きてきて、悪いことはしてないわ。どうしてわたしばっかり不幸になるのよ」 「神様に会う機会があったら訊《き》いてみる」 「あんたも諄《くど》いわねえ。最初から言ってるでしょう。神様なんかに訊かなくていいの。理由を訊く相手は高橋の奥さんなの。なぜ高橋と別れないのか。別れるつもりがあるのかどうか、そのことをはっきり訊いてくればいいのよ」  酔っていることは確かでも、不思議に、話はその結論に落ち着いてくる。三角関係なんてだれか一人の決意で解消するはずなのに、だれも清算を言い出せないところが、こういう問題の複雑さなのかも知れない。  店に新しい客が入ってきて、カウンターに座り、マスターに声をかけながら、肩で姉貴の顔を覗き込んだ。顔見知りらしく、姉貴も華やかな叫声をあげ、ぼくを無視して颯爽と『F1』の話題に突入していった。姉貴の人格を知らなければ怒るところだが、ぼくだって二十二年間、人間関係にはそれなりの苦労はしているのだ。  姉貴の主張は『F1が衰退した原因は日本の技術をレースから締め出したヨーロッパ人の傲慢さにある』というもので、直前まで人生の不幸を嘆いていたわりには、明快で分かりやすい論理だった。どんな環境にも素早く対応してみせるところが、さすがにマスコミの水というやつだ。  一人で家に帰ろうかとも思ったが、姉貴の酒量が気になって、ぼくはやはりカウンターに残ることにした。失った青春を姉貴が『F1』で忘れてくれるなら、それも都合がいい。ぼくにしても家で親父の寝酒を掠め飲むよりは、いくらか不良になれる。ぼくがいくら『退屈な人』であっても、今夜ぐらいは自分に退屈しないで、山口明夜の夢でも見ながら眠りたい。 「今日ね、仕事で森海生に会ったのよ。知ってるでしょう、ほら、あの女たらしで有名なエッセイスト……」  姉貴の相手はすっかりとなりの男に代わっていて、順調に進めば、その先は芸能界とサッカーの話題に行きつく。酔い潰れる直前はトレンディードラマ批判になるはずで、今夜は必然的に、ぼくが姉貴を担いで帰ることになる。覚悟はできているものの、姉弟の義理というのも、けっこう重くつく。 『耳の黒いのがパピヨン……か』と、ぼくは頭の中で一人ごとを言い、オンザロックの氷を、グラスの中でごろんと鳴らしてみた。公園に射していた西日の色やカラスの鳴き声は思い出したが、山口明夜が連れていた犬が鳴いたかどうかは、どうしても思い出せなかった。 「ニュースキャスターの久松ユキ、世界原理教の信者なんだって。歌手の橋田みなみもそうらしいわよ。派手に見えるけど、あの連中って孤独なのよね。大沢加代子も拒食症だし、東敏則なんか神経性脱毛症で丸はげなんだから。病人が無理に愛想笑いしてるのかと思うと、ねえ、テレビを観るのも怖くなるわよねえ」 [#改ページ]     2  だれかが頭蓋骨の中でハンマーを振り回しているような頭痛は、半端な二日酔いではない。喉も砂を飲み込んだようで、枕やシーツにまで酒の臭気《におい》が染みついている。下の階の物音が頭の芯にまで響いてきて、この世にぼく以外の人間がいることに本気で腹が立つ。分かりたくもないが、目蓋の明るさからは正午《ひる》も近いらしい。  なん時間悩んでいたのか、ついに我慢し切れなくなって、ぼくは壮絶な二日酔いのまま、無理やり下の階におりていった。取り入れた水分を排泄するだけのことに、人間はなぜこれほど苦しまなくてはならないのだろう。  トイレで膀胱を空にし、パジャマのまま居間に入っていくと、お袋が卓袱台《ちゃぶだい》に頬杖づきで、ぼんやりとテレビを眺めていた。グレーのカーディガンにベージュ色のスカートという出立ちは、ぼくが生まれたときから着ているユニフォームのようだった。テレビでは民放のニュースをやっているから、時間はまだ十二時前らしい。 「昨夜はずいぶん遅かったのねえ」と、テレビに鼻の頭を向けたまま、横座りの尻の位置をずらして、お袋が言った。  ぼくはうなずいたものの、喉の渇きで声が出ず、台所に行って冷蔵庫から牛乳をつかみ出してきた。お袋の横顔にはコーヒーをいれる意思表示はなく、ぼくの二日酔いにも責任は感じていないようだった。 「いつも言ってるでしょう。牛乳はカップで飲んでくれなくては困るわよ」 「最後まで飲むさ。半分も入ってない」 「国会議員がまた汚職で逮捕されたわ」 「困ったな」 「遅くなるようだったら電話してちょうだいね」 「昨夜は姉さんと一緒だった……姉さんは?」  卓袱台の遠くに座ったぼくに、一度だけ視線をよこし、右手で頬杖をついたまま、お袋が面倒臭そうに口を開いた。 「仕事に決まってるでしょう。あなたは自覚していないけど、この家で暇を持て余しているのはシロウだけなんだから」  その意見に、ぼく個人として、もちろん反論はない。それでも昨夜あれだけ飲んだ姉貴がしっかり仕事に出ているというのは、ほとんど理解できない神業だった。 「あなたが喜衣の真似することはないんですからね。昨夜は戸締まりもできなかったわ」 「駅で、偶然、会ってしまった」 「お酒を飲むなとは言ってないの。でも喜衣もあなたも大人なんだから、家族には迷惑をかけないでちょうだい」  最初にお袋のうしろ姿を見たときから、肩のあたりに、なんとなく拒絶的な雰囲気は漂っていた。庭に洗濯物も広がっていないし、流しの洗い物も片付いていない。 「母さん。今日はカルチャーに行かないの」と、庭に面したガラス戸を開けながら、深呼吸をして、ぼくが言った。 「九月からは午後の部に代わってるの。前にも言ったでしょう」 「朝からヨガをやるのって、大変だものな」 「随筆よ」 「ああ、随筆ね」 「主婦だからこそ生涯学習が必要なの。来月からは短歌のお教室にも通うつもり。あなたのように怠けていると、いつか必ず後悔する日が来るわ」  ブラウスもカーディガンも見慣れたもので、短くカットした髪型も、花柄のエプロンも、どこも昨日と変わっていない。それでも今日の横顔にはどこか殺気があって、二日酔いで無気力になっているぼくの神経に、困った和音を響かせる。 「母さん。門の西側に、菊が咲きはじめた」 「それがどうしたの。秋に菊が咲くのは当然よ」 「気がついていたかと、思ってさ」 「わたしが気づかなくても菊は咲きます。春には桜が咲いて夏になれば蝉が鳴きます。あなたが心配することではないでしょう」  頭痛と眠けと吐き気を、欠伸と一緒に噛み殺して、ぼくが言った。 「姉さんの病気が伝染《うつ》ったかな」 「喜衣の、なに?」 「ヒステリー」 「喜衣と一緒にしないでちょうだい。あの子はもともと病気なの。気が強くて我儘で、人の言うことを聞かない病気にかかっているの」 「躰の具合、悪いのかな」 「悪いのはシロウのほうでしょう。昨夜はどうして電話をしなかったの。あなたも喜衣もお父さんも、三人とも外で勝手なことをして、だれもわたしのことを考えてくれないじゃない」  蛇のいる藪をつついてしまったようで、なにを怒っているのか、お袋の頭の上の空気には、青い静電気が目に見えるほどくっきりと走っていた。カルチャーセンターで教養を磨いていなければ、今ごろはたぶん、卓袱台ぐらいひっくり返している。 「今度遅くなるときは、電話をするからさ」と、ガラス戸を閉め、膝立ちで茶箪笥《ちゃだんす》のほうに歩きながら、ぼくが言った。「姉さんにも電話はするように言っておく」 「電話のことなんかどうでもいいのよ。わたしはみんなが自分勝手だということを怒ってるの。お父さんもシロウも喜衣も、みんな家庭なんかどうでもいいと思っているじゃない」 「母さんが思うほど、みんな、ひどくはないさ」 「どこがひどくないのよ。あなたがどれ程わたしに心配をかけたか、覚えていないの。高校を中退したときなんか太宰府の天満宮にまで行ったのよ。そのお陰であなた、大学まで行けたんでしょう」  天満宮にもお袋にも、親父にも姉貴にも、いつだってぼくは、ちゃんと感謝はしている。 「喜衣だってそうだわよ。高校のときから友達の家を泊まり歩いて、なにをしていたか知れたもんじゃないわ。それで二十七にもなって、まだ身を固める気にならないんだから」  ぼくは頭の中で、深くうなずき、茶箪笥から胃薬と頭痛薬を取り出して、足のもつれを自覚しながら台所に入っていった。さっきより頭痛がひどくなった気がするのは、お袋の怒りが念力で伝わってくるせいだろう。  胃薬と頭痛薬を一緒に胃に放り込み、流しの前でため息をついたとき、お袋が首を伸ばして、居間から声をかけた。 「ねえシロウ、お父さん、浮気をしていると思う?」  咳き込みそうになったが、もう薬は胃の中に収まっていて、喉に這いあがってきたのは胃液の予感と、酸味の強い緊張だけだった。 「なんの話さ」と、顔だけお袋のほうに向け、実際は壁の柱時計を眺めながら、ぼくが言った。 「お父さんの浮気の話。あなたからみてどうなのよ」 「ぼくに訊かれても、困るな」 「シロウも男でしょう。お父さんが浮気をしているなら、気配で分かるはずじゃない」  姉貴も昨夜、そういえばなにか、親父のことを言っていた気はする。しかしお袋までなぜ突然、妙なことを言い出したのか。 「そういうことは、姉さんが専門だ」 「あの子は男と女のことをゲームとしか考えないの。それに喜衣はお父さんの味方でしょう。知っていても知らん顔をするに決まっているわ。あの子にはそういう、芯の冷たいところがあるの」  居間に戻り、頭に響く振動を警戒しながら、卓袱台の下に、ぼくはそっと脚を投げ出した。 「父さんが、浮気をするとは、思えないけどな」 「そうでしょう? お父さんにそんなこと、似合うはずないんだもの。でもこんな手紙を見せられたら母さんだって疑うわよ。だれがよこしたのか知らないけど、人騒がせったらありゃしないわ」  どこに隠していたのか、膝を正して白い封筒を取り出し、ぼくの顔に横目の視線を据えたまま、お袋が黙って卓袱台に白い封筒を滑らせた。特徴のない花柄の透かし模様が入っていて、それほどいい趣味とは思えなかった。 「あて名は母さんになってる」 「そうなの。でも差出人の名前は書いてないの。いいから中を読んでごらんなさい」  深入りなんかしたくなくても、二日酔いのこの体調で、ぼくにどう抵抗しろというのだ。昨夜の姉貴といい、今朝のお袋といい、この家には不倫の怨霊でもとり憑《つ》いているのだろうか。  封筒に入っていたのは、三つ折りにした殺風景な便箋で、内容は予想どおり、親父が会社の若い女子社員と男女の関係をむすんでいる、というものだった。こういう種類の手紙があることは知っていても、実際に目を通すと、やはり不愉快になる。身内が関係者だからというのではなく、手紙の内容に神経症的な臭気《におい》が漂っているのだ。親父と小谷紀代子というその女子社員の関係は、もう一年間つづいていて、二人で泊まりがけの旅行にも出かけているという。おまけになんの意味があるのか、相手の住所やアパート名まで書いてある。こんな手紙を受け取ったら、お袋でなくとも、虫の居所は悪くなる。 「どういうことか、なんだか、よく分からないな」と、便箋を封筒に戻し、卓袱台のまん中に押し出しながら、ぼくが言った。「これを書いた人、だからどうだと言いたいんだろう」 「お父さんを非難しているのよ。お父さんのしていることは公序良俗に反するし、亭主の浮気に気づかない母さんは大馬鹿者だって」 「そんなことは、書いてない」 「意味はそういうことでしょう。こういう手紙はそういう意味で書くんだから」 「父さんには訊いてみたの」 「だれかの悪戯《いたずら》ですって」 「ほかには?」 「それだけよ。会社を辞《や》めさせられた人が、お父さんを逆恨《さかうら》みしているかも知れないって」  親父は一応管理職ではあるらしいが、自分だって家電メーカーの技術部から子会社に出向させられた身分なのだ。仕事は浄水器に関する技術開発で、他人に恨まれるほどの人事権があるとも思えない。そんなことはぼくより、お袋のほうがよく知っているはずだった。 「わたしもね、悪戯だろうとは思うの」と、卓袱台に肘をかけ、ガラス戸のほうに目を細めて、お袋が言った。「でも相手の名前や住所まで書かれると、気分が悪いでしょう。こういう手紙ってそういうものなのよ」 「小谷紀代子という人に、訊いてみたら」 「なにを?」 「親父と浮気をしているか、どうか」 「訊けるわけないでしょう。母さんがこの人に会いに行ったら、手紙の内容を信じたことになるじゃない。手紙を書いた人はわたしに信じさせたいと思っているのよ」 「確認だけでも、さ」 「五十四にもなってそんなことができますか。この手紙が悪戯だということを、お父さんかだれかが証明してくれればいいだけのことなのよ」  親父の浮気が、本物かどうか。事実なら否定するだろうし、事実でなければ、やはり否定する。親父本人に証明しろというのは無理な注文で、お袋が自分でできなければ、疑いを晴らすのは、第三者ということになる。  と、そこまで考えたとき、突然ぼくはいやな予感に襲われ、吐き気の治まらない胃袋を抱えて、尻を少しだけ台所のほうへ動かした。 「シロウ、あなた、当分アルバイトはしないでしょう」 「写真に関係したものを、探しては、いるんだ」 「まだ見つからないわよね」 「景気が、どうも、悪いみたいでさ」  お袋の眉間には太い皺が浮かんでいて、うすく開いた唇の隙間から、乾いたため息が吐き出されてくる。 「手紙に書いてある『杉並区上井草』って、どのあたりだと思う?」 「杉並区の、井草の近くじやないかな」 「行ったことがあるの」 「西武新宿線には、縁がないし」 「あら。上井草って西武新宿線なのねえ」  予感は確信に変わっていて、もし鏡を見れば、ぼくの顔はきっぱりと青ざめているはずだった。 「ねえシロウ、あなた、この女の人に会ってきてくれない?」と、深爪の指先を組み合わせながら、目の端で遠くぼくの顔を眺めて、お袋が言った。 「あ、母さん……」 「暇なのはシロウだけなのよ」 「暇だとか、暇じゃないとか……」 「だってそうでしょう。わたしが会いには行けないでしょう?」 「基本的に、母さんの問題だと、思うけどな」 「わたしの問題だから具合が悪いんじゃない。下手に騒いで話がこじれたらどうするの。お父さんの立場だって考えてごらんなさいな。こんな景気の悪い時代に指名解雇にでもなったら、一家四人で路頭に迷うのよ。それにこの女の人から名誉毀損で訴えられたら、ご近所に顔向けもできなくなる。喜衣だってまた縁遠くなるし、親戚も黙っていないわよ。自由に動けるのはシロウだけなの。こういう仕事はあなたが最適なの。女の人も相手がシロウなら笑って済ませてくれる。あなたには他人に存在感を意識させない才能があるの。母さんに迷惑をかけてきたと思うなら、彼女に会って、手紙が悪戯だということを証明してきてちょうだい」  昨夜駅で姉貴に会ったのは偶然で、電話だってかけ忘れただけのことなのだ。言い訳をしても仕方ないが、二日酔いのせいか、なぜこういう仕事はぼくが最適なのか、ぼくには最後まで理解できなかった。二十二年間育ててきて、ぼくの『他人に存在感を意識させない才能』がこんなところで役に立つとは、お袋も思っていなかったに違いない。母親が胸を張って宣言するのだから、ぼくという人間はやはり、思い切り存在感が希薄なのだろう。 「頭痛薬が効いてくるまで、部屋で、もう一寝入りする」と、畳の上を横に転がり、吐き気を精一杯我慢しながら、ぼくが言った。 「あら、シロウ、頭が痛かったの」 「軽い二日酔いなんだ」 「喜衣となんか飲むからいけないのよ。あの子は父親に似てアセトアルデヒドの分解酵素を持っているの。あなたの体質はわたし似でしょう。用心しないと肝臓を壊すわよ」 「肝臓を壊して、入院でもするかな」 「仕事もしないで贅沢を言わないの。あなたはとにかく自分の義務を果たすこと。分かったわね。封筒、茶箪笥の一番下に入れておきますから」  姉貴の体質が親父に似ていて、ぼくがお袋に似ているというのは、勘違いに決まっている。アセトアルデヒドなんてどこで覚えてきたのか知らないが、昨夜だって酔い潰れた姉貴を背負ってきたのは、ぼくのほうなのだ。 「出かけるときは戸締まりに気をつけてよね」と、廊下から階段に足をかけたぼくに、テレビのリモコンを構えながら、欠伸をして、お袋が言った。「ご近所、最近空き巣が増えているらしい。回覧板でもそう言ってきたわ」 「母さんも出かけるの」 「随筆のお教室。講師の先生が認めてくださって、『随筆友の会』にも入会できそうなの。本気でフェミニン・エッセイ賞でも狙ってみようかしらね」  才能はともかく、テーマにだけは困らないだろうとは思ったが、口に出しては言わなかった。階段の途中でお袋と文学論を戦わすには、少しだけ二日酔いがひどすぎる。  ぼくは黙って階段をあがり、布団の乱れには構わず、そのままベッドに倒れ込んだ。裏の家で犬が鳴き、遠くの道をバイクが走り去る。床にはジーパンやブルゾンやティシュペーパーが散らかり、カーテンの隙間からはふんだんに光がこぼれ、それでもぼくは、もう寝返りをうつ気にもならなかった。     *  近くに日本語学校でもあるのか、中国系や東南アジア系の学生が、四、五人ずつ固まって公園の敷地を横切っていく。カラスも空の色に紛れるほどの時間で、風はなく、空気の匂いにも昨日よりは湿気が多く混じっている。JRの高田馬場駅からこの公園まで、早稲田通りの商店街にペットショップを探しながら歩いてきたが、金魚を売っている店以外には小鳥屋も犬の専門店も見当たらなかった。部屋で目を覚ましたときには頭痛も治まっていて、西武新宿線が高田馬場を通ることを、ぼくはしっかり思い出していたのだ。茶箪笥から『手紙』を持って家を出た動機が、小谷紀代子という人に会うことなのか、この公園のベンチに未練があったのか、自分でも判断はついていなかった。  二時間ほどベンチに座りつづけ、犬も山口明夜も現れず、文庫本の文字も見えなくなって、仕方なくぼくは腰をあげることにした。今日は散歩を休んだのかも知れないし、犬だってたまにはコースを変えてみたくなる。山口明夜と会っても赤面したに決まっているが、昔飼っていた松五郎について、ぼくも三つほど話題は用意してあったのだ。松五郎が雌であったこと。雀を捕まえるのが上手かったこと。不妊の手術もしなかったのに、なぜか子供が産まれなかったこと。しかしその話が終わったあと、また『退屈な人』と言われたら、他にどんな話題があったのだろう。  高田馬場から西武新宿線に乗って上井草に着いたのは、日の暮れきった七時四十五分だった。たいして広くもない駅で、電車をおりる人も少なく、バス通りの両側に退屈な商店が殺風景につづいているだけの町だった。お袋への手紙に電話番号はなく、駅前の住居案内を頼りに、ぼくは狭いバス通りを南に向かって歩きはじめた。住所やアパートの名前が書いてあって、なぜ電話番号が書いてないのか。手紙について親父は悪戯だと言ったらしいから、会社に小谷紀代子という人が勤めていることは事実なのだ。突然訪ねていって、『親父と男と女の関係があるのか』なんて訊いたら、相手はどんな顔をするだろう。笑って済ませてくれればいいが、まともな人なら怒り出す。それにまだ八時にもならない時間に、一人暮らしの女の人がアパートになんか帰っているものか。自分がなぜこんな町をうろついているのか、これから何をしようとしているのか、本当はぼくにも、まだよく分かっていなかった。  通りに面した八百屋で場所を聞いて、細い路地を住宅街のほうに入っていくと、そのあたりが上井草二丁目で、『かすみ荘』というアパートも簡単に見つかった。モルタルの二階建てらしく、ブロック塀の内側には上の階に通じる鉄の外階段がついていた。階段の下には名札を差し入れる郵便受けが並んでいて、二〇四の名前はたしかに『小谷』となっていた。住所もアパート名も本物なら、手紙の内容も、ひょっとしたら本物なのか。妙なことに係わってしまったと思いながら、怖いもの見たさの好奇心も、半分ぐらいぼくの背中に手を掛けていた。親父がお袋に隠れて電話をかけているという姉貴の証言も、真偽はともかく、なんとなく気にかかる。  郵便受けの前に立って、長い間迷っていたが、二日酔いの反動か、ぼくの躊躇《ためらい》に突然|自棄《やけ》ぎみな勇気が襲いかかった。こんな階段ぐらいのぼれなくて、山口明夜と松五郎の話なんかできるものかと、理由もなくぼくは興奮してしまった。  決心して階段をのぼっていくと、踊り場から四つ目のドアが二〇四号室で、鉄桟のはまった台所の窓に明かりがついていないことに、ぼくは大いに安堵した。もし小谷さんが部屋にいたら決心や勇気がどこまで役に立ったか、我ながら怪しいものだった。それでもぼくは一応、気休めのためにドアをノックし、応答がないことを確認して外廊下を階段に戻りはじめた。電話帳を見れば番号がのっているかも知れないし、人を訪ねる礼儀としては、まず電話で都合を確かめるべきだ。小谷さんが電話で親父との関係を否定してくれれば、ぼくの仕事は、本来それで完了のはずだった。  角の踊り場まで戻ったとき、下から階段をあがってくる人がいて、ぼくの弛んでいた肩の筋肉が、少しだけ緊張を再開した。街燈に浮かんでくる影は女の人で、鉄階段をのぼる足音も固いハイヒールのものだった。女の人が階段をのぼりきり、手摺りに身を寄せたぼくの前を、目を伏せたまま黙って通りすぎた。肩までの髪に薄い色のブレザーを着て、手にはコンビニのビニール袋をさげていた。顔はよく見えなかったが、小柄なうしろ姿は、ぼくより少し歳上の感じだった。  女の人が二〇四号室の前で立ち止まり、ハンドバッグから取り出した鍵で、ドアを手前に引きあけた。ブレザーのうしろ姿がドアの中に消え、すぐ部屋に明かりがついて、同時にぼくの腋の下から、じわりといやな汗が湧き出した。一人暮らしなら女の人は小谷さんに間違いなく、ぼくが今踊り場に立っているのは、この小谷さんに会うことが目的なのだ。  深呼吸を三度くり返し、掌の汗をジーパンの尻にこすりつけたとき、閉まったはずのドアが開いて、突然、ぼくは女の人と対面してしまった。  新聞の勧誘に来たとも言えず、ぼくは精いっぱい肩の力を抜きながら、ドアの前に立っている女の人のほうへ、ゆっくりと近づいていった。どこかに川でもあるのか、狭い外階段を背中から強い風が吹き抜ける。 「あのう、こんばんは」 「は?」 「小谷、紀代子さんでしょうか」 「はあ」 「親父の、いえ、ぼく、晴川|基也《もとや》の息子の、柿郎《しろう》といいます」  部屋からの逆光で目の表情は見えなかったが、名前を言ったとき、小谷さんの口が一瞬、アという形に開いたようだった。 「父が、会社で、お世話になっています」  現実の気まずさと、これからもっと気まずくなる予感に、ぼくの人生はほとんどパニックを起こしていた。近くを通ったので寄ってみた、という間柄ではないし、こんな事態に対処できると、ぼくはどこで勘違いしていたのだろう。  小谷さんが首をかしげ、小さい横顔の輪郭が、部屋からの明かりにぼんやりと浮かびあがった。唇が少し薄い、平凡で素直な顔立ちだった。 「部長の、息子さん……」 「はい」 「カメラマンの?」 「カメラマン志望です」 「わたしに、会いに?」 「電話番号が分からなくて、来てしまいました」  首をかしげたまま、二、三秒ぼくの顔を覗き、ブレザーの肩をすくめて、小谷さんが静かに唇を微笑ませた。混乱しているのはお互い様のはずで、それでも歳が上のぶん、余裕のあるところを見せたのかも知れなかった。 「突然お邪魔して、失礼なことは、分かっています」 「お入りになりません?」 「はい?」 「散らかっていますけど、構わなければ、どうぞ」  ドアの前で立ち話をする気分ではなかったが、用件も確かめずに、なぜ小谷さんはぼくを部屋に入れる気になったのか。上司の息子に対する礼儀なのか、それともぼくが訪ねてきた理由に、心当たりでもあるのだろうか。  小谷さんがサンダルを脱いで先にあがり、ぼくもドアを閉めて、言われるまま、沓脱から台所を通って六畳の和室に入っていった。畳には織物のカーペットが敷いてあって、ベッドはなく、部屋のまん中には火燵にもなる白いテーブルが置かれていた。洋服ダンスも姫鏡台も小机も、狭いスペースに整然と配置されていて、部屋の印象からは几帳面な性格らしかった。  ぼくをテーブルの前に座らせ、しばらく台所で支度をしてから、小谷さんが部屋に紅茶のセットを運んできた。紺のタイトスカートから伸びた脚は、小作りな顔のわりに、へんに肉感的な印象だった。 「部長に聞いていたより大人っぽくて、最初はびっくりしたわ」と、ていねいに紅茶のカップを差し出し、口の中で笑いを我慢するような顔で、小谷さんが言った。「でも大学を出ている歳なら、大人っぽくて当然だわね」 「親父、ぼくのこと、会社で話すんですか」 「お姉さんのことも話すわよ。喜衣さんだったかしら。雑誌の編集者なんですってね」 「家では会社のこと、親父はなにも話しません」  紅茶はミントの香りがするフラワーティーで、それでも紅茶だけ飲んで帰るわけにもいかず、決心して、ぼくは所期の目的を遂行することにした。このまま世間話をして帰ってしまったら、それこそぼくは、ヘンな奴になってしまう。 「うかがったのは、実は、手紙のことです」と、ブルゾンのポケットから封筒を取り出し、テーブルのまん中に置いて、ぼくが言った。「悪戯だろうとは思いますが、小谷さんに訊く以外、確認する方法がありませんでした」 「ああ、それね、部長が言っていた手紙」  親父から手紙の件を聞いていたのなら、ぼくが訪ねてきた理由も、小谷さんは最初から承知していたことになる。用件も聞かず部屋に入れてくれたのは、そういうことだったのか。 「手紙の内容も、聞いているわけですか」 「部長がわたしと浮気をしている……でしょう。よくある悪戯よ。部長って女性にやさしいから、女子社員のだれかがヤキモチを焼いたのかも知れない」 「親父が、女性に、やさしい?」 「包容力もあるし、仕事もできる。憧れている女子社員はたくさんいるわ。わたしが企画開発部に回されたのを、だれかが妬《ねた》んだんでしょうね」  言われて、親父の肩書きが企画開発部長であることは思い出したが、女性にやさしくて包容力があるというのは、どうにも居心地の悪い人物評価だった。お袋にプレゼントを買ってきたこともないし、二人で旅行に出かけたこともない。外での評価が小谷さんの言うとおりだとすると、家でむっつり黙り込んでいる晴川基也という人は、だれなのだろう。 「うちの会社、なぜか独身の女子が多いのよねえ」と、膝を少し崩してから、両手でカップを口に運び、うしろの壁に視線を巡らしながら、小谷さんが言った。「女子が多いと噂の数も多くなるの。部長は最初から気にしていないと思うわ」 「小谷さんは、気に、しませんか」 「社内の噂を気にしていたら仕事なんかできない。企画開発部に移れたのはわたしにしてもチャンスなの。うちの会社では一番やり甲斐のあるセクションなのよ」  姫鏡台には小谷さんのうしろ姿が映っていて、その尖った小柄な肩が、鏡の中で気の強い揺れ方をした。 「手紙を出した人に、心当たりは?」と、紅茶を飲み、呼吸をととのえてから、ぼくが訊いた。 「ですから、女子社員のだれかかも知れないし、他のだれかかも知れない」 「本当にただの、悪戯だと思いますか」 「悪意があれば中傷よね。それ以上のことは、わたしには分からないわ」 「悪戯であることを小谷さんの口から聞ければ、ぼくのほうはそれで、いいです」 「部長ご自身でも仰有《おっしゃ》ったはずなのに、お母さま、疑っていらっしゃるの」 「気分の問題です。親父にこういう噂が立つのも、お袋にこういう手紙が来るのも、慣れていないことですから」  小谷さんが下唇だけで笑い、空になったカップを脇にどけながら、拒絶的な目でぼくの顔をうかがった。ぼくのほうも他に訊くことがあるわけではなし、これ以上対面していたい相手でもなかった。今の証言をお袋に伝えてやれば、今日の仕事としては、二重丸がもらえる。 「紅茶、どうも、ごちそうさまでした」と、封筒をポケットに戻し、カーペットの上に座り直して、ぼくが言った。  小谷さんも安心したように首をかしげ、ぼくと一緒に腰をあげてから、台所の沓脱まで、背伸びをするように歩いてきた。手足のバランスが悪いわけでもないのに、背の低さを気にしているような歩き方だった。来たときは気づかなかったが、流しの横に置かれたコンビニのビニール袋からは、持ち帰り弁当のプラスチックパックが覗いていた。  スニーカーの紐を結び、開けたドアから背中を出して、ふとぼくは、忘れていたことを思い出した。 「今夜ぼくが来たこと、親父に、話しますか」  手を前で組み合わせていた小谷さんが、膝を屈《かが》め、薄い唇を開いたまま、わざとらしい瞬きをした。 「シロウさんとしては、どうして欲しいのかしら」 「家庭の平和に考慮してもらえれば、ぼくとしては、助かります」 「部長に隠し事をしろということ?」 「小谷さんと親父は、私生活のすべてを話し合う関係ですか」  小谷さんが深く息を吐き、動かない目で、静かにぼくの顔を見おろしてきた。 「家族でも知らなくていいことはあります」 「それは、そのとおりだわ」 「親父に話すかどうかは、小谷さんにお任せします」  それが癖なのか、小谷さんがまた首をかしげ、頬の髪を肩のうしろに払って、小さくスリッパの音を響かせた。せっかく平穏に過ぎている親父とお袋の生活に、意味のない波風を立てることはない。手紙が悪戯や中傷であるなら、関係者全員で無視するのが一番の解決方法だ。関係者の中には、もちろん、小谷さんも含まれている。 「子供のころ自閉症だったわりには、シロウさん、強引な性格みたい」 「大きなお世話です。他人が知らなくていいことは、家族以上に、たくさんあります」 「それもそうね。ではお母さまに、よろしくお伝えください。心配することは何もありませんって」  外に出て、ドアを閉め、内側に鍵のかかる音を聞いてから、外廊下をぼくは肩をすくめて歩き出した。お袋には小谷さんが言ったとおりを報告すればいいし、それ以上の詮索はぼくにもお袋にも、今のところ意味はない。小谷さんが本当はなにを考えていて、親父や仕事に対してどういう感想を持っているか、そんなことも知る必要はない。親父がなぜ小谷さんにぼくの自閉症まで打ち明けたのか、それも親父の問題だろう。中途半端な違和感は残っていても、違和感を抱えたまま黙り込むことに、そういえば、ぼくは昔から慣れている。     *  浦和の家に着いたときは十時になっていて、頭の中に耳障りな風は吹いていたが、二日酔いを克服した充実感と義務を果たした虚脱感で、気分はなんとか平和な方向に向かっていた。周囲のトラブルはどうであれ、ぼくにだって拘《こだわ》ってみたい自分の問題はある。フィルムを現像してオサ虫とゴミ虫の判定をつけなくてはならない。東京湾の埋立地で帰化植物の定着状況も調べたい。それにもし、うまく撮れている写真があったら、山口明夜のために犬のポートレートだって作ってやりたい。  玄関ドアの前に立ったとき、家の中に明かりはなく、雨戸も閉まっていないのにドアには外側から鍵がかけられていた。親父や姉貴が帰っていないのは当然としても、お袋がこんな時間まで、カルチャーに引っかかるとは思えない。  ぼくは自分の鍵でドアを開け、玄関から廊下の電気をつけて、空気の乾燥している居間に忍び足で入っていった。お袋だってたまには旅行に出かけるから、家にぼく一人だけという日もなくはない。それでも昨日からの経緯を考えると、ちょっとだけいやな雰囲気だった。  居間の蛍光灯をつけ、変化のない茶箪笥や親父の座椅子を眺めまわしてから、ふとぼくは卓袱台の上に白いメモ用紙を発見した。ボールペンで書かれているペン習字のような書体は、間違えようもなくお袋のものだ。  柿郎へ。喜衣自殺。命に別状なし。渋谷の開生会病院。帰宅次第直行されたし。  もちろんそのあとに、病院の所在や電話番号も書かれていたが、嘔吐の予感で、メモ用紙を持ったままぼくは五分ほど蛍光灯の下につっ立っていた。  メモはぼくに宛てているものだから、親父への連絡はついているに違いない。『命に別状なし』というなら、自殺未遂ではないか。昨夜たしかに、姉貴は東京タワーから飛び降りると騒いでいた。しかしあれは不定期にやって来る、習慣的な精神錯乱ではなかったのか。今朝は仕事へも出たというし、交通事故とか急病とか、連絡の行き違いということも、なくはない。  しばらくメモを睨んでいたが、考えても意味のないことに気づき、ぼくは渋谷の開生会病院に電話を入れてみた。女の人が出て、間違いなく晴川喜衣は今夜の八時に入院したという。浦和から渋谷なら、一時間で行ける。病院の場所を訊いただけで、ぼくは電話を切った。とにかく命に別状はないのだ。状況は病院についてからでも聞き出せる。あの姉貴が自殺をこころみるなんて、いくらなんでも信じられないが、それにしても昨夜、もう少し真剣に話を聞いてやればよかったかも知れない。  電話で聞いた開生会病院は、代々木と原宿と千駄ヶ谷の中間あたりにあって、ぼくはJRの代々木駅から正面玄関にタクシーを乗りつけた。貼り紙のとおり脇の通用口にまわり、鉄扉から暗い廊下を通って奥の事務室まで歩いていった。敷地もそれほど広くはなく、建物も公団住宅のような三階建てで、診療案内からは民間経営の総合病院らしかった。姉貴が自分で選んだわけでもないだろうから、救急の指定病院にでもなっているのだろう。  事務室には白衣を着た中年の女の人が残っていて、姉貴の名前とぼくの素姓を言うと、表情も変えず、三階にある病室と階段の場所を教えてくれた。最近は歯医者にもかかっていないし、ぼくが病院なんかに来たのは、五年ぶりのことだった。  コンクリートの階段をあがり、人気《ひとけ》のない廊下を進んで名札の出た三〇五号室のドアを開けると、中には親父とお袋がいて、カーテンを引いた窓際のベッドには、もちろん当事者の姉貴も横になっていた。枕元には点滴の瓶がぶらさがり、顔の下半分にはプラスチックの酸素マスクが掛けられていた。布団から出ているのは顔と点滴の針を受け止める左腕だけだったが、額や腕に傷はなく、ワンレングスの髪も肩の上できれいに揃っていた。東京タワーはともかく、高島平での飛び降りとか剃刀で手首を切ったとか、その類いの自殺ではなさそうだった。 「シロウったら、こんな時間までどこに行ってたの」と、折りたたみの椅子に座ったまま、スカートの膝をそろえて、声をひそめるように、お袋が言った。  となりには親父がいるわけで、素直に『上井草まで』と答えるわけにはいかなかった。 「具合、どうなのさ」と、ベッドの姉貴と、腕組みをしている親父の顔を見くらべながら、意識だけお袋に集中して、ぼくが訊いた。 「命に別状はないの。メモに書いておいたでしょう」 「どういうふうに別状がなくて、これからどうなるとか」 「そんなこと分からないわよ。お医者が大丈夫だというから、大丈夫なんじゃない。胃洗浄はしたの。明日には気がつくということだわ」 「毒かなにか、飲んだわけ」 「睡眠薬ですって。二週間分を一度に飲んだらしいの。母さんの気も知らないで、喜衣って、どうしてこう無茶なことをするのかしら」 「睡眠薬を飲んだだけなら、自殺とは、決められない」 「だって二週間分なのよ。一度に飲んで二週間も眠るつもりだったというの。それに……」  ぼくに上目を使ってから、ハンドバッグに手をかけ、唇の端に力を入れて、お袋が中から細長く折った白い紙を取り出した。家で見たメモよりは大きく、形からは四つに折った便箋のようだった。 「喜衣って、何を考えているのか、さっぱり分からないわ」  渡された紙は、やはり仕事用の便箋で、開いてみると、だれが見ても姉貴の筆跡と分かる大きな字で『高橋のバカ。森海生のバカ。柿郎のバカ』と乱暴に走り書きがしてあった。姉貴が自分以外の人間をすべて馬鹿だと思っている心理も、高橋さんや森さんに遺恨をもつ気持ちも理解できるが、ぼくを名指しするような、なんの恨みがあるというのだ。 「姉さん、こんなものを、書いていたの」と、便箋をお袋に返しながら、空いているベッドの枠に寄りかかって、ぼくが言った。 「意味は分からないけど、睡眠薬を飲んでこんなものを残していたら、だれだって自殺と思うでしょう」 「『遺書』とは、書いてないけどな」 「喜衣は肝心なところに手を抜く性格なのよ。子供のときからそうじゃない」 「だけど、姉さんだって、編集者だ」 「編集者でも変質者でも自殺の心理は同じことよ。ねえシロウ、森海生は知ってるけど、高橋さんってだれのこと?」 「仕事関係の、だれかじゃないかな」 「編集長さんは知らないと仰有《おっしゃ》っている。会社に高橋という人はいないそうだし、喜衣の仕事関係でも心当たりはないらしいの」 「会社にも知らせたんだ」 「喜衣を発見してくれたのが編集長の飯村さんなのよ。病院も手配してくれて、家にも連絡をくれたの」  姉貴が睡眠薬を飲んだ場所ぐらい、お袋のほうから話すのが当然で、『喜衣自殺』などと物騒なメモを残した人間には、それなりの義務がある。 「姉さんは、会社で、睡眠薬を飲んだの」 「いくら喜衣でもそこまではしないわよ。仕事で使っていた青山のホテルですって」 「仕事で、青山の、ホテル?」 「原稿を書くときに使っていたホテルらしいの。だから飯村さんも場所を知っていたんでしょうね」  ホテルと聞いて、ついアダルトビデオかポルノの撮影現場かと思ってしまったが、たしかに姉貴も、そんなところで睡眠薬を飲むほどハレンチではない。居場所を会社に連絡してあったなら、一応は編集のための仕事をしていたのだろう。 「夕方には原稿を入れる予定だったらしいのよね。それがいつまで待っても帰らないし、電話もかけてこなくて、飯村さんが直接ホテルに行ってくれたの。もう少し発見が遅ければ危なかったかも知れないのよ」  病院についてから、もう二十分が過ぎていて、ぼくにもなんとか、状況だけは理解できるようになっていた。姉貴が飲んだのは二週間分の睡眠薬で、致死量かどうかは別にして、少なくとも冗談や雑誌の実験ではなかったらしい。遺書めいた走り書きも残っているから、事故や殺人未遂の類いでもない。姉貴は昨夜、死ぬとか殺すとかわめいてはいた。高橋さんとのトラブルも事実だろう。しかしそんなことで、姉貴のような人が、本気で死を選ぶ気になるものだろうか。 「まあ、そういうことで、万事は意識が戻ってからだな」と、指の先で眼鏡の位置を直しながら、椅子を立って、親父が言った。「あとは二人に任せたぞ。俺はまだ仕事が残ってる」 「だって、あなた……」 「打合せの途中を抜けてきたんだ。命に問題がないなら、ここで暇をつぶしていても仕方ない」  親父が背広のボタンを掛け、ぼくのほうにちらっと視線を流したとき、ノックもなくドアが開いて、ステンレスの台車を押した看護婦がうしろ向きで病室に入ってきた。会釈もせず、言葉もかけてこなかったが、ぼくらに悪意を持っている雰囲気でもなかった。夜勤にうんざりしているのか、生まれつき愛想のない顔立ちらしかった。  ぼくらが唖然と見守る中、看護婦は黙って姉貴の脈を取り、クリップボードになにか書き入れてから、点滴の瓶と酸素マスクをはずしてきっぱりと病室を出ていった。その間はせいぜい十分はどの時間だった。お袋も親父も姉貴の容体は訊かず、立ったまま、ただ看護婦の仕事を見守っていた。自分の娘が自殺を図ることなど、世間の親にとって、滅多にあることではない。 「ええと、その、大事な接待でな。今夜は帰りが遅くなる」  わざとらしく腕時計を覗き、一人で勝手にうなずきながら、ふり返りもせず、親父が憮然と部屋を出ていった。睡眠薬を二週間分も飲んで、姉貴本人にも一大事だろうが、本来なら親にとっても気が動転するほどの大事件ではないか。 「ねえシロウ、昨夜喜衣から、なにか聞いていないの」と、出ていった親父を意識的に無視するように、胸の前で腕を組み、壁に寄りかかって、お袋が言った。 「普段どおりに、飲んだだけさ」 「でもなにか言ったでしょう。いくら喜衣が気まぐれでも、ここまでするには理由があるはずだもの」 「姉さんなりに、理由は、あったろうさ」 「そうでしょう。やっぱり何かあったんじゃない」 「だけどF1に腹を立てたぐらいで、自殺はしない」 「あら。喜衣、そんな人とつき合っていたの」 「そんな、人?」 「エフワンなんて、アラブ人かインド人の名前でしょう」 「そういうことじゃなくて、姉さんは自動車レースや新興宗教に腹を立てていたという、それだけのこと」  姉貴が死んだのならともかく、どうせ明日は目を醒ます。ぼくが高橋さんとの関係をお袋に喋ったと分かれば、どんな仕返しが来るか知れたものではない。『二度と金は貸さない』と言い出すぐらいの無慈悲さを、姉貴という人はじゅうぶんに備えている。不倫の三角関係で、しかも相手の子供をおろしたことまで、姉貴としても親には知られたくないだろう。どこまで説明するか、そんなことは明日、意識が戻ってから姉貴が自分で決めればいいことだ。 「それじゃシロウ、今度のことに、本当に心当たりはないわけ?」 「姉さんとぼくとは、思考の回路が違うもの」 「困ったわねえ。明日、警察の人にどう説明したらいいのかしら」 「母さん、警察なんか、呼んだの」 「呼びはしないわよ。向こうから勝手に来るの。こういう場合は病院として通報の義務があるらしくて、明日、事情聴取とかいうのをやるらしい」 「明日は意識が戻るんだろう」 「それはそうよ。今は睡眠薬を飲んで眠ってるだけだもの」 「意識が戻ったら、事情聴取は、姉さんが受けると思うけどな」 「あら?」 「たぶん、そういうことさ」 「そう……か。そうよねえ。忘れていたわ。意識が戻るから事情聴取を受けるわけよねえ。母さん、なにを考えていたのかしら」  警察なんてだれでも苦手なことは分かるが、睡眠薬を飲んだのが姉貴ではなく、ぼくだったとしても、やはりお袋は、こんなふうに自分の立場を守りとおすのだろうか。 「編集長さんも過労での入院で処理してくれるそうだし、とりあえず問題は、すべて解決したわけよね」と、椅子から安心したようにハンドバッグを取りあげ、姉貴のほうに皺のない首を伸ばして、お袋が言った。「この時間ならまだ電車で帰れるわ。シロウ、あなたは病院に泊まっていってよね」 「どういうことさ」 「あなたが喜衣に付き添って泊まるの」 「それは、母さん……」 「お医者に言われているのよ。心配はないだろうけど、場合が場合だし、今夜だけは家族が付き添うようにって」 「ぼくが付き添っても、なにも出来ない」 「することなんか何もないでしょう。どうせ喜衣は眠ったまま。暇なのはシロウ一人だけだもの。母さんは忙しいのよ。掃除も洗濯も買い物もある。喜衣がしばらく入院するとしたら、その支度だってしなくてはね。明日の正午《ひる》には来られるから、それまではあなたが付き添ってちょうだい。家族は四人だけなんだし、それぞれに役割の分担が必要なものなのよ」  お袋が納得したようにうなずき、ぼくの肩に手をかけて、もう一度姉貴の寝顔を覗き込んでから、毅然とした足取りでドアのほうに歩きかけた。家族が四人だけであることぐらい、言われなくても分かっている。ぼくが暇であることも間違いではない。しかしなんの必然があって、ぼくに自殺未遂の付き添いなんかが回ってくるのだ。 「ねえ。京浜東北線と埼京線、どっちがいいかしらね」 「掃除や洗濯なら、ぼくにも出来るけどな」 「だから病院でも寝られるじゃない。あなた、昔家出をしたとき、公園のベンチでも寝たんでしょう」  言い訳をすればするほど、なぜか、ぼくの立場は不利になる。姉貴の代わりに入院しろと言われないだけ、まだまし[#「まし」に傍点]ということか。 「東京駅まで行って、京浜東北線かしらね」 「新宿までタクシーで行って、埼京線を、赤羽で乗り換えればいい」 「タクシー、あるかしら」 「浦和とはちがうさ」 「そうよね。東京のまん中ですものね。それじゃシロウ、あとは頼んだわ。何かあったらナースコールで知らせるのよ。あなたも心配しないで、空いているほうのベッドで眠るといいわ。明日はなるべく早く来てみるから」 「母さん……」 「なあに」 「実は、今日、上井草に行ってきた」 「大変だったわねえ」 「上井草だよ」 「上井草って、どこの上井草?」 「例の、あの、手紙のさ」  半分までドアを開けていたお袋が、肩ごとふり返り、息を止めたまま、よろけるように向こう側へ重心をかたむけた。 「シロウったら、あなた、この忙しいときに……」 「こんなに忙しくなるなんて、思わなかったもの」 「上井草で、どうしたのよ」 「小谷さんに会った」 「会ったの」 「手紙はだれかの悪戯か冗談だってさ」 「彼女が?」 「そう言った」 「本当に?」 「本当」 「そう。そうだとは思ったけど……」  しばらく息を止め、疲れた口元に深い皺を刻んで、肩の力を抜くように、お袋が小さく欠伸をした。 「あなたも安心したわね。そうでなくても忙しいときに、ねえシロウ、これ以上面倒なことをしないでちょうだい」  お袋が気楽に会釈し、バッグを小脇に挟んだ腕で、小さく手を振ってみせた。ぼくは一気に疲れてしまって、口を開く気力もなく、椅子に座りながら、思わずお袋に手を振り返した。  ドアが閉まり、取り残されて、それでもなぜか、ぼくはほっとした気分だった。病院のベッドで眠れるとも思えないが、少なくとも明日までは、姉貴も起き出して来ない。小谷さんの印象や山口明夜の記憶を整理しながら、朝まで躰を休めることはできる。お袋が言ったように、姉貴だって、薬を飲んで二週間も眠れると思ったわけではないだろう。高橋さんとのトラブルも限界に来ているようだし、意識が戻ったら、警察の事情聴取や仕事のあと始末が待っている。明日以降どんな試練があるにせよ、姉貴もぼくも、ゆっくり休めるのは今夜一晩だけということだ。  ぼくは姉貴の腹が立つほど安らかな寝顔を確認し、空いているベッドに布団を広げて、その中にジーパンのままもぐり込んだ。病室の電気を消していいものか、ほかにすることがあるのか、考えても分からなかった。どんな難問も時間だけが解決するという理屈は、もしかしたらこういう夜のためにあるのかも知れない。頭の中に小谷さんの首をかしげた表情や、病室を出ていく親父のうしろ姿や、それからもっと、姉貴の酔態や山口明夜の屈折した笑顔が渦巻いていたが、どれもぼくを眠りに引き込んではくれなかった。家族の中で一番暇だというだけで、なぜこんな目にあうのか。天井の染みが拡大し、カーテンや白い壁が歪んで、神経には躰の内側から呟きのような夾雑音が紛れ込んでくる。建物のどこかでコンクリートが軋み、空調のダクトからは風の呟く音が聞こえてくる。眠れないぼくのために、病院も眠らず、いつまでも秘めやかにもがきつづけるようだった。 [#改ページ]     3  壁に金属的な振動が伝わりはじめ、廊下をだれかがスリッパを引きずっていき、台車を押す音がごつごつと床に響いてくる。神宮が近いせいか鳥の鳴き声も大きく聞こえ、エンジン音の高いバイクが無神経に病院の敷地を出入りする。浦和の朝も似たようなものだが、アルバイトでもないのに朝の六時半に起きるなんて、ぼくには一週間ぶりの経験だった。となりのベッドでは、鉄パイプの柵からペディキュアを塗った足が色気もなく飛び出している。実感に乏しい朝の空気ではあっても、ぼくは夢を見ているわけではない。  ぼくは無理やり自分の立場を確認し、ベッドをおりて、反対側に顔を向けている姉貴のベッドを、足元のほうに回ってみた。昨夜はきれいに揃っていたワンレングスは布団の中にもぐり込み、鼾《いびき》と寝息の中間のような、低い呼吸の音が聞こえている。目なんか覚ましたくはないだろうが、主役に起きてもらわないと、周りの人間が困ってしまう。  姉貴が寝返りをうち、寝言のような声が聞こえて、ぼくはまたベッドを反対側に回っていった。布団から覗いた姉貴の顔は、細い髪の毛が頬と首筋に貼りつき、額と鼻の頭には小さく汗の粒が浮かんでいた。化粧がきれいに落ちているのは、お袋の配慮だったのだろう。 「あら、シロウ……」  姉貴がぼくの名前を言い、腕を布団の外に伸ばして、大きくため息をついた。意識が戻ったのか、寝言なのか、表情からの判断は難しかった。夢の中でぼくの名前を呼んだとしたら、それはそれで、律儀な姉弟愛だ。 「シロウ、あんた、まだ居たの」 「昨夜から居るさ」 「んったく、あんたって、意気地がないんだから……」  どうもやはり、寝言だったようで、その割りにはちゃんとぼくの人格を非難している。自殺を試みたあとまで弟の人生を心配してくれるのは嬉しいが、ぼくの立場からは、大きなお世話だ。  そのとき、ドアにノックの音がして、返事をする間もなく昨夜の看護婦と背の高い男の人が部屋に入ってきた。男の人も白衣を着ていて、眼鏡の光らせ方がいかにも医者という雰囲気だった。二人は黙ってぼくに一瞥をくれ、姉貴のベッドに歩いてから、看護婦のほうが布団を剥いで脈を取りはじめた。姉貴も半分ほど目を開いたが、それでもコーヒーとか紅茶とか、定番の要求はしてこなかった。 「あなた、今ご自分がどこに居るか、お分かりですか」と、丸椅子を引き寄せ、姉貴のほうに屈みながら、忙しない口調で、医者が言った。  瞬きもせず、ぼんやりした目で部屋の中を見回してから、唇をなめて、姉貴が小さくうなずいた。 「お名前は?」 「晴川喜衣」 「生年月日は?」 「昭和四十三年、九月二十一日」 「お母さんのお名前は?」 「晴川久子」 「お勤めは?」 「大洋出版雑誌編集部」 「会社の住所は言えますか」 「港区南青山三丁目。共同ビル十二階」 「電話番号は?」 「三四七八・〇四九……」  医者の質問は、馬鹿ばかしいほど基本的なもので、そうやって姉貴の精神状態や薬の後遺症を確かめているのだろう。朦朧としながら殊勝に返事をしているから、姉貴のほうも状況は認識しているらしい。 「今のところ体調に異常はありませんが、精密検査とカウンセリングをおこないます。一週間は入院していただきますよ」  姉貴が額に皺を寄せて、また小さくうなずき、医者と看護婦の顔をぼんやり見くらべながら、ふっと欠伸をした。 「夕方にでもゆっくり話を聞きます。とりあえず今は休むことですね。肉体的にも精神的にも、今は休養第一と心がけてください」  医者が看護婦に目で合図をし、ぼくには見向きもせず、眼鏡の蔓《つる》を押さえながら大股に病室を出ていった。  看護婦もつづいて部屋を出ていき、姉貴もまた目を閉じて、ぼくは途方に暮れ、なんとなく窓の前に歩いていった。外はすっかり明るくなり、ビルの背景に緑色の森が霞むように広がっていた。風はなく、光の色は見えず、オナガのような鳥が連なって森の方角へ飛んでいく。三日ほど天気がつづいたから、今日あたりそろそろ雨になるのかも知れない。 「あーあ。お腹が空いたな」と、また寝ぼけたのか、本気で目が醒めたのか、一人ごとのような声で、姉貴が言った。 「目、醒めたんだ」と、首だけ姉貴のほうにまわして、ぼくが訊いた。 「耳元であんなふうに怒鳴られたら、だれだって目は醒めるわよ」 「早く寝た人間は、早く目が醒めるさ」 「朝から因縁をつけないで。それでなくてもわたし、気が滅入ってるんだから」  姉貴の視線はもう正確に天井を睨んでいて、鼻の形にも見慣れた頑固さが戻っていた。声の調子に普段の強引さは感じられなくても、腹が空いたり気が滅入ったり、自殺未遂明けの朝としては大した精神力だ。 「自分のやったこと、分かってるんだろう」と、窓から部屋の中に歩き、ベッドの足元に腰をのせて、ぼくが言った。 「二日酔いで頭は痛いし、原稿は捗《はかど》らないし高橋には腹が立つし、なんだか、みんな面倒臭くなっちゃった」 「姉さんにしては大人げなかった」 「釈迦に説法だわよ。わたしだってたまには苛々するの。あんたみたいに呑気な性格が羨ましいわ」 「今回はやりすぎだ」 「分かってるわよ。死んだのならともかく、生きてるわたしに説教をしないでちょうだい」  姉貴が生きているからこそ、奇妙に元気だからこそ、ぼくだって愚痴の一つも言いたくなる。 「だけど、実際のところ、あれからどうなったのよ」と、上半身を枕の上にずらし、ワンレングスの髪を掻きあげながら、ぼくの顔に目を細めて、姉貴が言った。 「姉さんは青山のホテルで睡眠薬を飲んだ」 「それは分かってる」 「二週間ぶんを、一度にさ」 「数なんかかぞえなかった。腹が立って、医者からもらった薬をぜんぶ飲んでやったの」 「編集長という人がホテルで見つけて、病院を手配した」 「飯村ちゃんが?」 「名前は、どうだったかな」 「彼、わたしに惚れてるのよね」 「ああ、そう」 「会社のほうはどうにでもなるわ。で、ホテルで見つけてから?」 「救急車で運ばれて、胃洗浄をやって、お袋や親父が駆けつけて、それで、ぼくが今朝まで付き添った」  姉貴が首を長く反らして、肩をすくめ、顔の片側に自嘲的な皺を浮かべながら、ふんと鼻で息を吐いた。行為自体は自覚していても、予想される混乱に関しては、まだ頭の焦点が合っていないようだった。 「お袋、入院の支度をして、正午《ひる》には来るってさ」と、姉貴の動かない目を眺めながら、ぼくが言った。 「へーえ」 「警察も来るらしい」 「なにをしに」 「事情聴取」 「だれの」 「姉さんの」 「どうして」 「自殺未遂だから」 「わたしが……あら、そうなの」  睡眠さえじゅうぶんなら、姉貴は決して、自殺なんか考えなかったろう。昨日は二日酔いで仕事が捗らなくて、高橋さんに怒っていて、それでつい睡眠薬を飲んだのだ。薬を飲んだのが自分でなければ、こんな事件、欠伸一つで忘れてしまう。 「ねえ、シロウ、訊いてもいい?」 「なにを」 「本当にわたし、自殺だったの」 「遺書を書いたんだから、そうじゃないかな」 「遺書って」 「高橋のバカ。森海生のバカ。柿郎のバカ」 「ああ、あれ……ね」 「二週間ぶんの睡眠薬を飲んで、あんなものを書いたら、普通は自殺になる」 「自分でも覚えていないのよ。何もかも面倒臭くなったことは確か。二日酔いで頭が痛くて眠りたかったことも確か。でも死ぬ気まで、あったのかしらね」  実際に事件を起こしたのは姉貴のほうで、いくら姉弟でも、ぼくがそんな核心に立ち入ったら失礼になる。本当に死にたかったのか、ただ眠りたかっただけなのか、本人がゆっくり考えればいいことだ。 「遺書を書いたことは覚えてるんだよな」と、姉貴の乾いた唇や、小鼻に浮いた脂を空しく眺めながら、ぼくが言った。 「なんで書いたのかしら、ねえ?」 「高橋さんのことは分かる。森さんのことも分かる。だけどぼくに、なんの恨みがあるのさ」 「わたしがシロウになんの恨みがあるのよ」 「訊いているのは、ぼく」 「あんたのことなんか恨んでいないけど?」 「それじゃ、なぜ、ぼくの名前を出した」 「ついでよ」 「……」 「文章学的に三名連記のほうが美しいの。高橋と森海生はすぐ思いついたんだけど、あとの一人が浮かばなかった。まさか、ねえ、会社の人間では具合が悪いでしょう」  自殺の間際まで文章の構成や会社での人間関係を考慮するのは立派だが、ただのついでで、出来れば、遺書になんか名前を出さないでほしい。 「だけどやっぱり、まずかったわよねえ」と、肩の髪を指先にからめながら、大きく欠伸をして、姉貴が言った。「あのメモ、親父や母さんも見たわけよね」 「お袋が高橋さんのことを訊いていた」 「なんて答えたの」 「知らないと言っておいたさ」 「やばいなあ。なぜ書いたのかなあ。分かっていれば益田か渡辺の名前にしておいたのに」 「益田か、渡辺って」 「昔つき合っていた男」 「書いてやれば、喜んだろうにな」 「でも高橋のことはやばいわ。お袋に説明するのも怠《たる》いし、騒ぎが大きくなれば、向こうにも迷惑がかかる」  自殺も自殺未遂も、もともと相手に迷惑をかけることが目的ではないのか。将来を儚《はかな》んだとか人生に無常を感じたとか、姉貴にそんな意図があったとは思えない。疲労や仕事での混乱はあったにしても、基本的には、今回の事態は高橋さんとの不倫が原因なのだ。ここまでやったからには、どういう形にせよ、高橋さんとの関係に結論を出したいと思ったのだろう。 「姉さん。高橋さんの会社、どこだっけ」 「神宮前。表参道の近く」 「会社の名前は?」 「フレンチウエスタン」 「電話は?」 「三三五……どういう意味よ」 「高橋さんには知らせたほうがいい」 「冗談でしょう。そんなことをしたらわたし、あんたを恨んで死んでやる」 「二度死なれても、困るな」 「本気で言ってるのよ。高橋に知らせたら、もうお金なんか貸してやらないから」  一昨日《おととい》はトラブルに介入しろと言って、今日は高橋さんに知らせるなと言う。どちらが本心なのか、姉貴自身、判断はついているのだろうか。 「一昨日『ロックンロード』で飲んだときは、ぼくに高橋さんの奥さんを殺せと言った。それが出来なければ、自分が高橋さんと奥さんを殺して、東京タワーから飛び降りるって」 「わたしが?」 「高島平はいやだって」 「高島平は、そりゃあ、いやだけど」 「ホテルで睡眠薬を飲むのも格好よくはない」 「だからね、昨日のことは弾みなのよ。いろんなことに腹が立っただけ。それでただ休みたかっただけ」 「原因は高橋さんのはずだ」 「シロウが口を出すことではないでしょう。これはわたしの問題なの。高橋と二人だけの問題なの。親父にも母さんにもあんたにも、一切口を出してほしくないわ」  自殺未遂明けという環境を考慮しても、姉貴の言い分は、少しばかり勝手すぎる。自分で対処できるなら薬なんか飲まないはずで、口を出せと言ったり出すなと言ったり、ぼくにどうしろというのだ。 「シロウはとにかく黙っていて。親父や母さんが知っても仕方ないわけだしね。あんたには迷惑をかけないから」 「好きにするさ。もともとぼくには、関係ないことだもの」  ぼくは一つ、わざと欠伸をしてから、ベッドをおり、肩をすくめてドアのほうへ歩き出した。体調にも問題はなさそうだし、意識さえ戻れば、姉貴は本質的に強靱な性格なのだ。睡眠薬を飲みたいのはぼくのほうで、立場が逆なら、今ごろは浦和の家で葬式の準備をしている。 「シロウ、あんた、どこに行くの」 「外の空気を吸ってくる」 「コンビニでお弁当を買ってきてよ」 「入院患者だから、食事が出るさ」 「碌なもんじゃないわよ。それにわたし、昨夜の夕飯を食べ損なってるの」  食欲のあるのはいいことで、本当ならぼくも、素直に喜ぶべきところなのだろう。 「覚悟を決めなくてはいけないわ。医者も入院しろと言うし、思い切って有給でも取ろうかしら」 「安静第一だものな」 「ついでにコーヒー」 「分かってるよ」 「お砂糖もミルクも要らない。百パーセントピュアなやつ。缶でもいいけど、出来たら落としたてのアメリカンがいいわ」 「百パーセントピュアの、落としたてのアメリカン、な」 「シロウ……」 「ん?」 「いろいろ、ありがとう」 「どうせ暇なんだ」 「ついてないなあ。森海生の連載が取れたのに、これでボーナスと差し引きだわ。ただ真面目に働いているだけなのに、どうしてわたしだけ、いつも不幸になるのかしら」     *  雨にそなえて餌の取り溜めをしているのか、雀の群れがせわしなく欅の枝を往復する。ベビーカーの母親が向こうのベンチで週刊誌を広げ、制服を着たOLが二人並んでブランコを揺すっている。見慣れたはずの公園の風景に、それでもやはり、ぼくは不安定に緊張してしまう。  病院で朝飯が出たのが八時。お袋が旅行鞄と紙袋をさげてやって来たのが十一時。警察も事情聴取とやらには現れず、お袋と付き添いの交代をして、ぼくは任務を終了してきた。足が高田馬場の公園に向いたのは、山口明夜の顔が見たいという、単純な理由だった。外の世界は目が回るほど躍動しているのに、ぼくだけはいつも、術《すべ》もなく傍観している。  白い犬が鎖を引いて通りすぎ、喉が乾いて、咳払いの音を、ぼくは意識して喉の奥に飲みくだした。世界中で白い犬を連れているのは山口明夜一人だけだと、ぼくはしっかり思い込んでいるようだった。  犬を連れたおばさんが公園の敷地から居なくなって、ぼくは腰をあげ、目眩を引きずったまま明治通りの方向に歩き出した。早稲田通りは昨日見てまわったから、ペットショップがあるとしたら明治通りに沿ったあたりだろう。ベンチに座っていてもいいが、それで山口明夜に会えるとは限らない。昨日だって公園には来なかった。犬たちが予定より早く問屋に返された可能性もある。カメラをぺろりと舐める犬なんて、本来ならハンバーグにされても文句は言えない運命なのだ。  ぼくは一度早稲田通りに出てから、明治通りとの交差点まで歩き、北に向かうゆるい坂を新目白通りまでくだってみた。日当たりの悪そうな寂《さび》れた一画で、酒屋や警察署の建物が目立つ以外、喫茶店もブティックもない枯葉の多い歩道だった。  オートバイや自転車や都バスや、遠慮がちにカーブを曲がる都電の流れを眺めながら、五分ほど、ぼくはその交差点に立っていた。それから突然、根拠のない確信を感じ、来た道を早稲田通りまで引き返した。花屋の店先で女の人にペットショップの有無を尋ねたのは、動物と植物とを無理やり関連づけてみた結果だった。  女の人が、十分ほど新宿寄りに犬猫ショップがあると教えてくれ、距離に疑問を感じたが、とにかくぼくはそこまで行ってみることにした。ほかに用があるわけではなし、家で姉貴の将来を心配しても仕方はない。山口明夜に会ってどうするのか、そこまでの意識は働いていなかった。  明治通りの歩道に見つけたペットショップは、両隣を薬屋とバイク屋に挟まれたビルの一階で、狭いショーウインドゥに灰色の小さい猫を押し込み、店先にはドッグフードの袋や餌の缶詰が段ボールのまま積みあげられていた。ドッグフードにも猫のウインドゥにも、みな『大特価』と書かれた赤い大きな札が貼ってある。人間の都合で特価品にされた犬や猫は、死んだあと、このペットショップに化けて出るに違いない。  入っていくと、中は奥に細長い採光の悪いディスプレイで、動物の臭気が万遍なく充満し、棚にも床にも首輪や薬品のペット用品がなだれ落ちそうなほど山積みになっていた。壁の一画には上下二段に仕切られた鉄の檻があり、不安な目をした犬や猫が、それぞれ二、三匹ずつ鳴きもせずにうずくまっていた。猫はみな同じように見え、犬も檻によって種頬は違うらしいが、ぼくが知っているスピッツやコリーはどの檻にも見当たらなかった。シェパードとかプードルとか、あの類いの犬は町でも見かけなくなっている。ペットにも服やクルマのような流行があるのだろう。  首輪やキャリーケースや猫の爪研ぎ板や、種類の多さに唖然とはしても、ぼくはペットショップの商品見学に来たわけではなかった。目や耳の神経が、自然に山口明夜の気配を探しはじめる。染めた髪をうしろに束ねた中年の女の人がいる以外、店員も客も見当たらない。山口明夜の勤めているペットショップではないのか、それともまた、犬の散歩にでも出ているのか。  そのときぼくの足元で、小さくうずくまっていた犬が鼻声で唸り、檻の鉄柵にうしろ足で立ちあがってきた。檻の中の犬はみな白くて同じような形だったが、背伸びをした犬は耳の先端が黒く、公園でカメラをぺろりとやった、あの失礼で人なつこいパピヨンという種類の犬らしかった。ぼくの顔を覚えているとも思えないから、店に来た客にはだれにでも愛想をふりまく、生まれつき律儀な性格なのだろう。パピヨンがいるということは、山口明夜もこの店でアルバイトをしているということだ。  背中が痛くなるほど緊張し、ぼくは集中力が頭の中に戻ってくるまで、檻の前にしゃがんで犬の鼻面を指先で弄んでいた。偶然言葉を交わしただけの女の子を探して、勤め先にまで来てしまった。ひどく滑稽な行為で、控えめに言ってもださい[#「ださい」に傍点]というやつだろう。健全な女の子からは歓迎されないことも分かっている。山口明夜に会えるまで公園で待ちつづけるか、店に来るにしても、さりげなく偶然を演出するべきだった。  このまま帰るのか、男として勝負に出るのか。常識と情熱の狭間《はざま》で、ぼくは冷汗が出るほど迷っていた。そしてしゃがみ続けていることにも疲れ、ついに、思い切って腰をあげることにした。姉貴は寝言にまでぼくを意気地なしと罵《ののし》るが、立ちあがって、向きを変えて、髪を染めた女の人の前ぐらいまで、ぼくだってちゃんと歩いて行けるのだ。 「あのう、すみません」 「はい?」 「犬……」 「はい」 「パピヨン……」 「ええ」 「あの犬、いくらでしょうか」  女の人が頭ごと首を伸ばして、ぼくの肩越しに犬の檻をのぞき込んだ。首のネックレスが光り、入れ歯と分かるきれいな歯が、にっこりとこぼれ出す。 「可愛いワンちゃんでしょう。父親はBOBになってるし、母親はフランスからの輸入犬なの。もちろんあの仔犬にも血統書がついてるわ」 「BOB?」 「コンテストで犬種別の最優秀犬になったという意味」 「すごいですね」 「そうでしょう。これだけ血統のいい犬、ほかのショップなら二十万はするはずよ。うちは特別なルートで入れてるから、十五万でお分けできるの」 「檻には『大特価』と書いてあります」 「大特価にして十五万円なのよね」 「山口さんは、安くなると、言ってました」 「あら……」  入れ歯とネックレスを光らせたまま、目尻の皺で、女の人が躊躇《ためらい》もなく笑いつづける。 「仔犬にしては育ちすぎてます」と、無理やり唾を飲み込んで、ぼくが言った。 「山口さんのお知り合いなの」 「彼女、今日、休みですか」 「やめたわよ」 「あ……」 「一昨日《おととい》」 「一昨日?」 「突然やめると言い出して、それっきり。アルバイトだったし、うちも暇ではあったけどね。ほかに仕事でも見つけたんじゃないかしら」  重心が破綻して、意識や節度に関係なく、危うく、ぼくはカウンターの角に肘を打ちつけるところだった。一昨日アルバイトをやめたということは、公園で会った、あの直後ということではないか。『気が変わったらパピヨンを買いに来い』と言ったくせに、そういえば山口明夜は店の場所も名前も、電話番号も言わなかった。 「山口さんのお知り合いなら、一割ぐらいは値引きしてあげられる」と、まっすぐぼくの顔を覗きながら、小皺で囲まれた口を不気味に歪めて、気安く、女の人が言った。 「直接山口さんから買うと、約束しました」 「直接といっても、ねえ、もうやめちゃったわけだし」 「約束なんです」 「彼女が居ても一割以上はまけられないわよ」 「そういうことではなくて、つまり、義理があるわけで……彼女の住所、教えてもらえますか」  女の人が、ぼくの顔を眺めたまま、ぴくりと小鼻をふくらませた。表通りにクルマが渋滞して、緑色の都バスが暗く店の採光を遮《さえぎ》ってくる。寒いわけでもないのに、ぼくの背中には自覚できるほどの鳥肌が立っていた。 「住所は分かるけど、そういうこと、教えていいのかしら」と、からかうような、ためらうような口調で、女の人が言った。 「高田馬場の近くに児童公園があります」 「ブランコと鉄棒があって、たまに浮浪者が寝ているわね」 「一昨日、夕方、山口さんが犬を散歩させていました。そこで知り合って、約束しました。だから山口さんの意見を聞かないと、あの犬、買うわけにはいきません」  自分で言っていながら、ぼくだって自分の論理には、非常な疑問を感じていた。しかし今は論理より、情熱を優先させるべきなのだ。ここで引きさがったら、もう一生、山口明夜には会えないかも知れない。 「山口さんも変わっていたけど、あなたも変わってるわねえ。よく分からないけど、それなら、そういうことにしてみたら?」  女の人が浅くため息をつき、カウンターの下からバインダーを取り出して、小さいメモ用紙に呆気なく書き込みを入れはじめた。どうせなん日かあとには問屋に返す犬ではあるし、風変わりな青年が気紛れで買ってくれるとしたら、それでもいいと思ったのだろう。女の人の光るネックレスや口元の小皺に、心の中で、ぼくは深々と敬礼した。 「ぎりぎりにサービスしても一割五分引きまで。ねえあなた、山口さんに会ったら、わたしがそう言ったと伝えてちょうだいね」  昨夜姉貴が自殺未遂なんかやらなくて、寝不足でもなくて世の中にも腹を立てていなかったら、果たして今日、ぼくにこんな冒険が可能だったろうか。     * 『北区赤羽三丁目二十二の六。せせらぎ荘二〇二』  山口明夜の住所が北区の、それも赤羽というのは、ちょっと感動するほど意外な場所だった。お袋は『日本で一番米がたくさん取れる場所』と意味不明な冗談を言うが、それは終戦直後の、東北からの闇米が赤羽に集まってきたころの話らしい。この二十二年間、赤羽に住んでいる友達は一人もいなかったし、住みたいと言った人間にも出会わなかった。ぼくも京浜東北線を埼京線に乗り換えるだけで、おりたことも、おりたいと思ったこともなかった。機会がなくて田無や五反田に行かないのとは、微妙なところで感想がちがう気がする。大学のときにつき合った女の子は上野や赤羽という地名に、失礼なほどの嫌悪感を示したものだ。  改札を東口に出ると、噴水のある駅前には高島平や王子へ向かうバスが並んでいて、女子高校生のグループや買い物袋をぶらさげたおばさんがたむろし、都内の住宅地というより、浦和よりもっと先の、どこかの小さい地方都市に似た印象だった。人の歩き方も緩慢で、大通りを流れるクルマも空気の下に重く澱んでいた。荒川の鉄橋を渡るときいつも眺める町なのに、山口明夜が住んでいるというだけで、マクドナルドや銀行の看板にも不思議な新鮮さが感じられる。  ぼくは駅前の住居案内図を確認し、中央通り商店街という人気《ひとけ》のない道を、息苦しさを誤魔化しながら歩きはじめた。山口明夜が部屋に居るのかどうか、もし顔を合わせてしまったら、なにを言うのか。突然訪ねていって、どうしても会いたかったと言ったら、彼女はぼくを交番に突き出すだろうか。  商店街を過ぎ、まだ店を開けていないスナックや小料理屋の路地を抜けると、岩淵町と標識のある広い交差点に出た。案内図では交差点をななめに渡った辺りが赤羽三丁目のはずだった。角には木造の時代がかった米屋があり、大通りを挟んだ二ヵ所に真新しい地下鉄の駅が見える。  ぼくはその交差点を荒川方向に渡り、もう一度通りを横切って、二十二番地を探しながら路地を徘徊しはじめた。本郷や谷中のような軒を接するほどの下町でもなく、杉並や世田谷ほど他人行儀な住宅街でもない。マンションふうの建物はほとんどなく、木造住宅のひしめく間にときたまアパートのベランダが見える程度だった。駅前にも商店街にも人は少なかったし、住宅街の道にもまるで人は歩いていない。地下鉄まで走っているのに、都内でこれほど閑散とした町は、そう滅多にあるものではない。  路地から路地へ、十分ほど歩き回り、小学校の塀に二十二番地の標識を見つけたとき、霊感のようなものが、ぽんとぼくの肩をたたいてきた。校庭を挟んだ道の向かい側にモルタルの家並みがあって、一ヵ所に灰色の狭い外階段がはみ出している。建物も青みがかった灰色で、アルミサッシの窓が窮屈そうにのぞき、階段の脇には四個の郵便受けと白いプラスチックの表札がかかっていた。確認するまでもなく、横書きの表札には、活字体で『せせらぎ荘』という黒くかすれた文字が書かれていた。  校庭に木霊《こだま》する子供の声を頭のうしろで聞きながら、ぼくは掌の汗をジーパンにこすりつけ、郵便受けの前まで歩いて、そこで深呼吸をした。心臓に集まってくる血管が途中でねじれたような、目の遠近調節機能が狂ったような、自分の存在感に責任がもてないほどの緊張だった。二〇二号の郵便受けには、『やまぐち』と書いた白い紙が差し込まれている。名前を書いたその文字は、最近では流行《はや》らない丸文字だった。  恋のために自殺を図る人間のことを考えれば、交番に突き出されるぐらい、いくらでも覚悟できる。ぼくは必死に言い訳を整理し、階段の一段目に足をかけ、あとは耳鳴りの音にまかせて、一気に二階まであがっていった。階段をのぼったりドアをノックしたり、そこまでなら、少なくとも犯罪にはならない。  二階の廊下は階段と同じほどの狭さで、手前のドアが二〇一、奥の南側に向いている部屋が山口明夜の二〇二号室だった。壁はモルタルに塗料を吹きつけた簡単なもので、ドアも蹴とばせば破れそうな白い化粧ベニヤだった。小谷さんのアパートより全体に貧弱な感じで、東側にも南側にも空らしいものは覗けなかった。  血迷ってはいても、犯罪ではないし、頭も狂ってはいない。ぼくは自分にそう言い聞かせ、期待と恐怖に混乱しながら、目をつぶって三度、拳を軽くドアに打ちつけてみた。中から返事がしたら逃げ出したかも知れないが、声も物音もなく、ぼくは呼吸を整え、腋の下に噴き出した汗を無視して、また三度ドアをノックした。やはり返事はなく、ぼくの萎縮していた血管に、安心した血液がさらさらと流れはじめた。山口明夜に会いたいのか、会いたくないのか、自問するのも馬鹿ばかしい。恐怖と安堵と失望が、溶け合わずに神経の末端を駆け巡る。胃の上のほうが痛いような悲しいような、分析不可能な心理状態だった。ただ女の子の部屋をノックするだけのことで、ぼくはなぜ、ここまで人生を賭けているのだろう。  どれぐらいそこに立っていたのか、よくは分からなかったが、頭の中に校庭からの声が蘇生し、ぼくはドアの前から離れることにした。メモを残したくても言葉は見つからなかった。会う前に交番へ通報されたら、恥をかく場面さえなくなってしまう。  階段を下におりてから、ぼくは腕時計で時間をたしかめ、決心のつかないまま、重い曇り空の道を駅とは反対の方角に歩き出した。案内図ではすぐ荒川に行きつくはずで、山口明夜に会えなくても、もうしばらく同じ町の空気を吸っていたかった。暗くなるまでには二時間もあるし、家に帰ったところでお袋も病院から戻ってはいない。カメラの手入れや図鑑調べや、昨日までならいくらでも暇つぶしはあったはずなのに、その方面に気力が湧く予感すら感じなかった。  小学校の横を北に抜けると、いくらも行かないうちに低い土手につき当たり、土手に沿って工事用のトラックや商用車の行き交う幅の狭い道が走っていた。前面の空は黒く百八十度に開いているから、土手の向こうが荒川になっているのだろう。  ぼくは信号のない道を急いで横切り、ガードレールをまたいで、コンクリートで固めてある斜面を息もつかずにあがっていった。視界が突然明るくなって、曇り空の中に工事途中の高層ビルが一本、地球から煙突が生えるように飛び出していた。土手の真下には五面のテニスコートがあり、向こう側に細い水路を挟んでもう一つの土手が立ち塞がっている。荒川がこんな狭いはずはなく、手前の川は新河岸川《しんがしがわ》と呼ばれる農業用水路だ。この川がどこかで、名前を変えて墨田川になる。  視界が開けたり草の匂いが強くなったり、それだけでもう、本能的に気分が楽になってしまう。高い土手に阻まれて荒川の対岸は見えず、少し迷ってから、ぼくは用水路を渡って本物の荒川土手まで行ってみることにした。下手《しもて》にはクルマが走っている橋が見え、上手《かみて》には鉄橋越しに歩道だけの渡り橋が見える。距離は川上のほうが遠かったが、排気ガスに身を晒すのも腹が立つし、百メートルや二百メートルの距離を節約することにも意味はない。  歩行橋を渡り、電車の走る鉄橋を川下側にくぐってから、目の下に広がった景色に、ぼくはひっそりとした可笑しさを味わった。赤羽側の岸には咲き残ったコスモスが地味な色に広がっていて、実際に目にするまで、その光景を思い出しもしなかったのだ。いつも京浜東北線の電車から眺めているはずなのに、自分が風景の中に入ってしまうと、外側の自分をつい忘れてしまう。  鉄橋を渡る水色の電車を下から眺めながら、ぼくは土手に腰をおろし、波もたてずに流れる川と対岸の霞んだビル群を、欠伸と一緒に透かし見た。新河岸川土手から煙突のように見えた高層ビルには『スカイタワー』という工事用の看板が出ていて、周りのビルを圧して灰色の空を鋭く切り裂いている。対岸は埼玉県の川口市で、昔はこの辺りが海への出入り口だったのだろう。目のすぐ近くを羽裏の白い千鳥が飛び、赤い花をつけたイヌタデをバッタがぴょんと跳び越える。十一月のバッタに違和感はあるが、そういえば高田馬場の公園にも夏の虫が這い回っていた。実際に今も、黄色いセイタカアワダチ草の上を二匹のシロ蝶が屈託なく飛んでいる。野球の練習場からは遠い喚声が聞こえ、早足で散歩をする年寄りのうしろ姿が見え、雑草の湿気や重い空気の匂いが遠慮もなく伝わってくる。寒くはないし、平和な退屈ではあるが、雨の気配がぼくに居眠りを許さない。うしろを銀色のジョギングスーツが走り抜け、そのときだけ一瞬、モノトーンの風景がささやかに掻き回される。  ジョギングスーツが感心するほどの早さで消えていき、雑草の冷たさに、ぼくも仕方なく腰をあげることにした。雨の気配は本物で、これで雨に濡れたら、ぼくは本当にネクラな変わり者になってしまう。赤羽ぐらい毎日でも通えるのだ。その気になれば自転車で走って来ることもできる。ぼくの家が浦和で山口明夜のアパートが赤羽にあったことは、もしかしたらこれは、ぼくたちのそういう運命だったのかも知れない。  土手の上に戻り、来た道を歩行橋のほうへ歩きだして、さっきのジョギングスーツが目に入り、危なくぼくは雑草に足を取られそうになった。距離は五十メートル以上も離れているし、頭には青いスポーツタオルを被っている。しかし重心の高いその歩き方は、犬を連れて高田馬場の公園から出ていったときの、山口明夜の歩き方と同じものではないか。期待が幻影となって姿を現したのか、寝不足の幻覚なのか。となりには替上着をきた中年の男の人が歩いていて、話をしているようだったが、距離とタオルのせいで顔までは見えなかった。  ぼくの足は止まらず、前の二人も橋に近づいてきて、進退のきわまったところで、ついにぼくらは正面から向かい合うことになった。気配が伝わったらしく、スポーツタオルの下から、山口明夜の冷静な視線がまっすぐぼくの顔に向かってきた。気持ちの準備はできていたはずなのに、柔らかい衝撃で、視界が遠近の方向に波を打って歪んだようだった。  二人が橋の手前で立ち止まり、短く言葉を交わしてから、男の人だけが飄然と新河岸川を渡っていった。上着の肩が骨ばって見える、色の黒い痩せた人だった。  アパートの近くだから出会う確率はあったにしても、ジョギングスーツの山口明夜までは、ぜったい予想していなかった。あれほどのスピードで走ったくせに、まるで息はあがっていない。近寄ってくる山口明夜の頬には、困ったような呆れたような、小さい笑いが浮かんでいた。 「やあ。ずいぶん、偶然だな」  山口明夜が頭のタオルを首の下にさげ、額に貼りついた前髪を掬いながら、背伸びをするように呼吸を整えた。 「今日も写真を撮りに来たの」 「水辺の昆虫に興味がある」 「カメラもなくて?」 「今日は、いわゆる、ロケハンというやつ。近くにこんな場所があったことを、今まで忘れていた」 「家、どこ?」 「浦和」 「一昨日は高田馬場だったわ」  返事をくしゃみで誤魔化し、貧血を起こしそうな頭に、ぼくは意思力で精一杯の気合いを入れてやった。こんなところで会うのは予定外の成り行きだったが、部屋のドア越しに最初の言葉を交わすより、いくらか救いがある。アパートと赤羽駅は同じ方向で、ぼくらは二人とも、そちらへ向かって歩いているのだ。 「ペットショップから電話があった」と、橋の階段に足をかけ、肩をすくめながら、山口明夜が言った。「変な人が訪ねてきたって」 「犬のことが心配だった」 「飼う気になったの」 「ちょっと、心配になっただけ」  電話で話を聞いているとすれば、ぼくが赤羽にいる理由は、知っていることになる。カメラを持っていない理由だって、最初から分かっていたのだ。 「パピヨンはいたけど、ほかの犬は、見分けがつかなかった」と、階段をのぼりながら、火照った耳を風に晒して、ぼくが言った。 「売れないでしょうね」と、顔を対岸に向けたまま、他人事のように、山口明夜が言った。「問屋に返されて、運がよければ繁殖場に引き取られる」 「運はいいさ。性格もよさそうだし」 「飼う気、本当にない?」 「無理をしたらぼくも犬も辛くなる」 「大人の判断、か。見かけよりあんた、まともなのね」  橋を渡りきり、新河岸川の土手を下流に歩きながら、悲観していいのか満足していいのか、少しぼくは複雑な気分だった。山口明夜に無視されなかったのは喜ぶべきだが、表現力が破綻して、このままでは犬の話題で時間がつぶれてしまう。五分も歩けばアパートにもつくし、そうなったらぼくだって、意地を張って颯爽と別れなくてはならない。『部屋に寄ってコーヒーを飲んでいけ』とは、山口明夜は、まず言ってくれないだろう。 「君が店をやめていて、困った」と、足を止め、テニスコートの横にある小さい公園を見おろしながら、ぼくが言った。  山口明夜も一瞬足を止めたが、首のタオルに両手をかけただけで、黙って新荒川大橋の方向に歩き出した。 「ほかの仕事を、見つけたの」 「まだ」 「あの店、なぜやめたんだ」 「あんたに関係ある?」 「ないけど、訊いてみただけ」 「閉じ込められている動物を見るのが辛くなったの。それだけのこと」  膝と背筋を伸ばした山口明夜の歩き方は、怒っているようでもあり、気取っているようでもあり、タオルで意識的に表情を隠しているようでもあった。 「さっきの走り方、本物のマラソン選手みたいだった」 「あんたに分かるの」 「それぐらい……ぼくの名前、言ったと思うけどな」 「晴川ね。名前のほうは覚えていない」 「シロウ。柿の木のシに椿三十郎のロウ」 「椿三十郎って」 「映画。昔、黒澤明が撮ったやつ」 「知らないわ」 「君、いくつ」 「二十二」 「ぼくと同じだ」 「だから?」 「黒澤の映画ぐらい、知ってると思った」  直線的な山口明夜の眉が、右側だけ上に弧をえがき、無表情だった目に意外なほどの困惑が広がった。突然に侵入してくるこの繊細さは、初めて会った日と同じものだった。その極端な振幅が、不思議にぼくの緊張を和ませる。 「そうかも知れない。普通の女の子なら、知ってるわね」と、タオルで乱暴に顔を拭き、テニスコートに向かって息をつきながら、蹴飛ばすように膝を振って、山口明夜が言った。 「君、帰国子女か、なにか?」 「まさか」 「それなら……」 「英語なんか喋れない。映画のことも知らない。中学からずっと陸上をやっていたの」  山口明夜のジョギングスーツが素人の練習用でないことぐらい、聞く前から、ぼくにだって想像はついていた。首筋に残った不似合いな日焼けのあとも、陸上の選手ということなら納得がいく。しかし公園のベンチに座っていたときの山口明夜は、たしか、タバコを吸っていたのではなかったか。 「やっぱりね。来てしまったわ」 「なに、が?」 「雨」 「ああ……やっぱり、な」  ぼくの額にも粒の大きい雨が当たって、対岸のススキの穂もテニスコートの人影も、降りだした雨に忙しい動揺をはじめている。山口明夜の顔に見惚れていて、ぼくはそのことに、気づきもしなかった。  山口明夜が目で合図をし、土手の途中から滑りおりて、ガードレールを跨ぎながら肩越しにぼくをふり返った。ぼくだって靴はスニーカーで、そのときは必死に土手をくだりはじめていた。運動能力に差があることは分かっているのだ。アパートまで走るつもりなら、自分だけ走ってぼくのために傘を持って来てくれても、ぼくのほうは一向にかまわない。  山口明夜が走り出し、ぼくも釣られて、クルマの間から細い道を一心に走りはじめた。カメラバッグがあれば言い訳にもなるが、手ぶらで、それに陸上の選手とはいえ、女の子を相手におくれをとって嬉しいはずはなかった。ぼくはなんとか山口明夜に追いつき、肩を並べて渾身の気合いで走りはじめた。最初に見えていた横顔が、すぐ首のタオルになり、ジョギングスーツの背中になり、そしてついに、ゴールでは二十メートルほどの先着を許してしまった。ぼくがやっと外階段ののぼり口にへたり込んだというのに、山口明夜のほうは息も切らさなかった。 「あんた、運動不足ね」と、階段の途中で立ち止まり、真上から冷たくぼくの顔を見おろして、山口明夜が言った。 「昨夜、寝ていないせいだ」と、自分の声が出ることに感謝しながら、ぼくが答えた。 「運動を軽蔑してるわ」 「人によって得意な分野が違うとは、思っている」 「不得意でも基本は必要なの。基本的な算数や国語が必要なのと同じこと」 「得意なのは、運動だけでは、ないんだな」 「どういう意味?」 「説教まで得意だとは、思わなかった」  鉄の階段が高い音をたて、しかしそれ以上の反応はなく、気がついたときには、山口明夜の足音と部屋のドアが閉まる音に、ぼくは呆気なく取り残されていた。考えてみればたしかに、一度もついて来いとは言われなかった。ぼくが勝手に競走をしかけただけで、山口明夜にしてみれば雨宿りを申し出る義務はない。ぼくのほうは毎日山口明夜のことを考えていたが、彼女にとっては突然荒川の土手に現れた『へんな人』以外の何者でもないのだ。寝不足で、パニックで、脳は酸欠を起こしていても、それぐらいの常識はちゃんと確保できる。  雨は本降りになっていて、道路からの吹き込みが階段を三段目まで濡らし、おまけに屋根からの滴が、元気よく手摺りを跳ねるほどになっていた。ぼくは途方に暮れ、階段の途中に座ったまま、茫然と雨を眺めはじめた。さっきはあれほど無茶をやったくせに、改めて山口明夜の部屋をノックする勇気が、どうにも湧いてこない。顔を合わせて、話をしてしまったことで、エネルギーは意気地もなく萎縮してしまった。知らない町の知らないアパートの、こんな階段の途中に座り込んでいるぼくを、山口明夜は本気で、ためらいもなく見捨てるのだろうか。  頭の上のほうで、不意に布のこすれる音がして、人の気配が、やっとぼくの困惑を救いに来てくれた。 「そんなところで、何をしているの」と、ジョギングシューズをサンダルに履きかえ、怒ったように腕組みをして、山口明夜が言った。 「何をしているのか、自分でも、それを考えていた」と嬉しさは顔に出さず、大きく深呼吸をして、ぼくが答えた。 「まだ立てない?」 「立つぐらい、簡単さ」 「どうでもいいけど、あがったら?」 「いいのかな」 「傘を貸してあげたいけど、一本しかないの」 「普通は、傘なんて、一本あればじゅうぶんだ」  このやみそうにもない雨と、一本だけしかない傘に感謝して、ぼくは腰をあげ、身をひるがえしたジョギングスーツのあとからそっとドアの内側に足を踏み入れた。二十二年間神様なんか信じたことはなかったが、今日以降は少し、信念を改めるべきかも知れない。  入っていった山口明夜の部屋は、感想を言うのも憚られるほど、見事なまでに簡潔な部屋だった。ドアの横に小さい台所とすりガラスの嵌まったユニットバスがあり、カーテンの向こうはスチールベッドを置いただけの、カーペットも敷いてない六畳の和室だった。衣装ケースのような家具はなく、ガラスのテーブルが一つに、ビデオ内蔵型のテレビがチェストの上にへんな目立ち方をしている程度だった。冷蔵庫も炊飯器も見当たらないから、コンビニを台所として活用する生活なのだろう。 「わたし、シャワーを浴びる。あんたはテレビでも観ていて」  山口明夜がそっけなく仕切りカーテンを閉め、服を脱ぐ音を隠す気配もなく、バスでシャワーを使いはじめた。カーテンの薄さはともかく、汗をかいてシャワーを浴びるのは、たぶん当然なのだろう。ぼくに襲いかかる勇気がないことも、どうせ山口明夜は見抜いている。  シャワーの音には困ったが、それでもどうにか肩の力を抜き、壁に寄りかかって、理不尽に襲ってきた眠気に戸惑いながら、ぼくは改めて部屋の中を見回してみた。窓のカーテンは視界を遮る用途にだけ徹したような、仕切りに使っているものと同じ安物のプリント模様だった。スチールのベッドにカバーはなく、ブルゾンやコーデュロイパンツなどの洋服が、閑散と壁のフックに吊るされている。その横には『小林酒店』と印刷された絵のないカレンダー。CDコンポやラジカセもなく、プラスチックの籠に放り込まれた雑誌以外、本らしいものも見当たらなかった。どこまで簡素な生活ができるか、自分と賭けでもしているような印象だった。  テレビを観る気にもならず、寝るわけにもいかず、ぼくは雑誌の籠に手を伸ばして、中の女性誌を期待もなく掻き回してみた。雑誌にまぎれて『最新ペット年鑑』というカラー表紙の本があったが、それ以外に専門書も小説もなく、白い布で装丁されたアルバムが一冊だけ、気の毒なほど目立っていた。表札の丸文字も可笑しかったが、アルバムに貼られた熊のアップリケは、山口明夜の無自覚な過去なのだろう。  ぼくは罪の意識もなく、籠からアルバムを抜き出し、背中を壁にあずけて熊のアップリケを開いてみた。最初の写真は縁側を背景にした『一家勢揃い』という感じのやつで、みなコートや和服を着ているから、正月にでも撮った記念写真らしかった。子供は三人写っているが、横を向いたり目をつぶったり、どれが山口明夜かの判断はつかなかった。  ページを進めていくと、すぐに山口明夜の端正な特徴が表れ、五、六人の小学生の中でも、怒ったように大きい目は軽く他の子供を圧倒していた。このころから背は高く、髪は前髪を垂らした長いおさげ[#「おさげ」に傍点]だった。日焼けしているようにも見えないし、競技として陸上を始めたのは中学に入って以降のことか。実際ページの半ばからは髪が男の子のような刈りあげになって、服装もトレーニングウエアや胸にゼッケンをつけた競技用のランニングに変わってくる。一人で競技場のゴールに飛び込む写真もあれば、表彰状を持ってはにかむように笑っている写真もある。他には修学旅行の記念写真も、友達とのスナップもない。同じような写真は高校生になってからもつづき、ページの最後は、陸上のチームで写した『優勝』の記念写真だった。背景の横断幕には『全国高校女子駅伝選手権大会』とある。駅伝にもマラソンにも知識はないが、ぼくと走って負けるような実力ではないということだ。  写真に写っている選手は全部で七人。山口明夜はチームの中心らしく、笑いもせずカメラに向かって表彰状を開いている。となりで白い歯を見せているのは、意外にも荒川の土手から一人で帰っていった、骨ばった肩のあの色の黒い男の人だった。チームの監督とか顧問の教師とか、そんな立場の人らしい。高校を卒業しても、まだ山口明夜はこの人にコーチを受けているのだろうか。  ジョギングはしているにせよ、山口明夜が今も現役のランナーとして走っているとは、やはり思えない。走っているなら写真の一枚ぐらいあるはずで、楯とかトロフィーとか賞状とか、記念品だってどこかに飾ってある。顔の日焼けも消えているし、タバコを吸うこともないはずだ。中学から陸上競技に専念してきたわりには、この部屋も山口明夜も、少しだけ殺風景すぎる。  膝のアルバムが突然宙に浮き、窓からの光を反射させた山口明夜の目が、天井の近くから冷静にぼくの顔を襲ってきた。眠っていたはずもないが、一分か二分、注意力が切れていたようだった。山口明夜はジーパンにロゴ入りのトレーナーを被り、頬と鼻の頭を赤くして、唇に缶入りのスポーツドリンクを押しつけていた。  黙ってアルバムをプラスチックの籠に戻し、濡れた髪を掻きあげながら、ベッドのまん中に、山口明夜が表情を変えずに座り込んだ。 「もし雨がやまなかったら、駅まで送っていくわ」 「髪が乾いてからでいいさ。湯冷めは躰に、よくない」 「どうせ岩淵の駅までよ」 「そう」 「気を使わなくていいの」 「あの地下鉄、どこまで行ってるの」 「駒込」 「その先は?」 「駒込まで。そのうちどこかへ繋《つな》がるらしいけど、乗ったことはないわ」  山口明夜が口の端に力を入れ、左の頬に不似合いな笑窪をつくって、ベッドの下に長い脚を投げ出した。形としては骨の細いきれいな足なのに、踵と小指にナイフで削ってみたくなるほどの肉芽が盛りあがっていた。 「忘れてた。君に会ったら、松五郎のことを話そうと思っていた」と、胸騒ぎのような息苦しさを感じながら、集中力が戻ってくるのを待って、ぼくが言った。 「マツゴロウって」 「昔うちで飼っていた犬」 「散歩に出てクルマに轢《ひ》かれた犬?」 「姉貴は純粋な雑種だと言うけど、ぼくはテリアの雑種だと思っている」 「似たようなものね」 「名前は雄みたいだけど、本当は雌でさ」 「可哀そう」 「手術もしないのに子供ができなかった」 「そう」 「君、タバコを吸わないの」 「どうして」 「一昨日《おととい》は吸っていた」 「やめたわ」 「いつ?」 「一昨日」 「躰によくないものな」 「そんなことを言うために、わざわざ赤羽まで来たの」  突然部屋が明るくなり、それから暗くなって、耳鳴りのような音が、視界の前面を忙しない速度で回りはじめた。血管の血が心臓の方向にだけ、うんざりしながら集中する。最初にノックをしたとき、もし山口明夜が部屋にいたら、今ごろぼくは救急車で姉貴と同じように病院に運ばれていた。 「どうでもいいけど……」と、ぼくの動揺には敬意を払わず、ベッドの下に足先をぶらりと振って、山口明夜が言った。「あんた、わたしが荒川にいること、なぜ分かったの」 「やめてくれないかな、そういうの」 「そういうのって」 「『どうでもいいけど』と、『あんた』っていうの」 「どうして」 「嫌いなんだ」 「なぜ?」 「ぼくにとって『どうでもいいこと』なんか一つもないし、『あんた』って呼ばれると、姉貴を思い出す」 「お姉さんのこと、嫌いなの」 「好きだけど、ああいう人の人生には、関係したくない」  覚悟はできていて、もう奥歯の手前まで来ているのに、『君に会いたかった』という一言が、どうしても、出てきてくれない。 「姉貴、昨夜、自殺したんだ」 「ふーん」 「でも、ちゃんと生きてる」 「自殺未遂ね」 「静かに生きることが、なぜ出来ないのかな」 「だれのこと?」 「姉貴」 「わたし、お姉さんのことなんか、訊いてないわ」 「偶然さ」 「なにが?」 「君と荒川で会ったのは偶然だった。赤羽まで来たのは、もちろん、偶然ではないけど」  投げ出されていた山口明夜の足先が、膝の下にゆっくりと戻っていき、スチールのベッドが軋んで、空気の中にしばらく、皮膚が痒くなるような沈黙が拡がった。ぼくが松五郎の話や姉貴への愚痴を言いに来たのではないことを、山口明夜も理解はしてくれたようだった。 「でも、まさか、な」と、畳の上に膝を伸ばしながら、耳鳴りに頭を振って、ぼくが言った。「君が駅伝の選手だとは思わなかった。知っていれば一緒に走らなかった」 「走ったのは二年ぶり。躰が重くて息が切れて、自信がなくなった」  心臓がいくらか冷静さを取り戻し、ためらっていたぼくの血を、少しずつ血管の末端に押し出していく。 「二年ぶりであのスピードなら、オリンピックにも出られる。次のオリンピック、どこだっけ」 「興味はない」 「ゴールで待ち構えていて、君が優勝する瞬間を写真に撮る」 「今日は試しに走っただけ。つづけるとは決めていないわ」  一つ呼吸をして、山口明夜がスポーツドリンクを飲み干し、部屋の中に視線を巡らしながら、軽く唇を噛みしめた。走ることへの思いは見当もつかないが、アルバムから消えている高校以降の写真が、理由はともかく、事情を説明しているのかも知れなかった。  山口明夜が窓に手を伸ばし、三十センチほど開いて、座ったまま小さく空を覗きあげた。窓の外はとなりの家の壁で、雨音が聞こえる以外に降り方の程度は分からなかった。 「小降りになったみたい。やむようには見えないけど」と、投げやりな横顔を見せながら、唇を動かさずに、山口明夜が言った。 「君、マラソン、どうしてやめたの」 「他人《ひと》には関係ない」 「一流になれたかも知れないのに」 「どうかしらね」 「君なら、なれた」 「一流になって、それから?」 「それは、そのときに考える」  雨音に耳を澄ますように、山口明夜が目を細め、窓からの風に小さく欠伸をした。 「旅行もできないし、映画も観られない。走ってもいいことはないわ」 「旅行をしても映画を観ても、いいことはないさ」 「わたしだって普通に歳をとっていく。晴川くんのほうこそ、どうして写真をはじめたの」 「ぼくは、なにも、才能がないから」 「大学は?」 「やめた。高校も途中でやめた。写真もまたやめる気がする」 「面倒な性格ね」 「性格はいいんだ。医者が保証した。高校を中退したとき、無理やり医者に連れていかれた。性格はいいけど、社会性過剰適応症だって」  山口明夜の視線が戻ってきて、笑い出す直前のような影が、長い睫を微妙に震わせた。その右の目蓋《まぶた》に小さいソバカスが散っていることに、ぼくは、初めて気がついた。 「社会や他人に、過剰な適応反応をするらしい。それで、途中で、神経が切れてしまう」 「根気がないだけみたい」 「結果的には、そうかな」 「本当にしたいことは?」 「ないことも、ないさ」 「たとえば?」 「アフリカとかチベットとかアマゾンとか、自分の足で歩いてみたい」 「疲れそう」 「作り物の生活ではない、剥き出しの自然とか人間とか、そういうものを確かめたい」 「確かめてどうするの」 「生きていることに違和感がなくなれば、ぼくは、それでいい」  自分の言葉がどこまで山口明夜に伝わるか、期待したわけではなかった。それでも口に出したことは赤面するほどの本音で、アフリカだろうが日本だろうが、この痂《かさぶた》のような違和感を捨てられる場所が見つかれば、ぼくの人生は、そこで完結する気がする。熱があるわけでもないのに、姉貴やお袋にも話さなかったことを、ぼくは夢遊病のように喋ってしまった。  山口明夜がベッドをおりて、部屋を横切りながら空き缶をビニール袋に放り、台所の境に浅く顔をのぞかせた。ぼくの人生観に感銘を受けた顔でもなかったが、少なくとも『どうでもいい』とは言わず、『退屈な人』と言わなかった。それにどこまで意識しているのか、山口明夜は初めて、ぼくを『晴川くん』と呼んでいた。 「雨、やまないみたいね。赤羽の駅まで送っていくわ」  交番に突き出されることまで覚悟していたぼくとしては、これ以上の期待は、たぶん分不相応だ。土手で眠らなかったのも幸運だし、雨が降りだしたのも、山口明夜が傘を一本しか持っていないことも、ぼくの人生では起死回生の幸運だった。赤羽に来た理由は言葉に出せなかったにしても、気合いぐらいは通じたに違いない。送られる場所も岩淵から赤羽の駅まで延びていて、この幸運の揺り戻しが来ないうちに、今日は素直に引きあげるべきだろう。 「次の仕事、早く見つかるといいな」と、腰をあげ、カーテンやベッドや壁の色を確認しながら、まだ残っているシャンプーの匂いを深く吸って、ぼくが言った。 「そのうち、適当にね」と、鼻を少し曲げただけで、山口明夜が答えた。 「ぼくもしばらくしたら、またアルバイトをはじめる」 「アマゾンって、面白い?」 「蚊と蟻とピラニアがたくさんいる」 「沖縄も暑いかな」 「アマゾンほどではないけど、どうして」 「べつに、なんとなく、どうかなと思っただけ」  山口明夜がゴムサンダルをつっかけ、肩をすくめて、狭い沓脱から、ぼくたちは押し合うように外へ出た。雨は小降りになっていたが、手摺りに飛ぶしぶきの強さは変わらなかった。時間のせいか、空の色もうんざりするほどの黒さに変わっている。小学校の前には出迎えのクルマが並び、駅の方角からは大型車のエンジン音と、遠いクラクションが聞こえてくる。眠くて興奮してぼんやりして、早く自分のベッドにもぐり込みたい。平凡な眠りがやって来るはずはなくても、幸せであることが不安であるという単純な精神状態を、ぼくは、だれにも打ち明けたいとは思わなかった。 『アマゾンはアンデス山脈とギアナ高地とブラジル楯状地に囲まれていて、流域面積は日本の十八倍……』と、ビニールの傘を山口明夜の上に開きながら、雨に気恥ずかしいウインクを送り、頭の中で、ぼくは一人ごとを言った。 [#改ページ]     4  熟睡できる状況でもないのに、前の晩から、ぼくは十時間も寝てしまった。雨もあがっていて、競馬場の方向からはカラスの声も聞こえている。駅の西口は県庁所在地らしい都会になっていても、線路で区切られた東側は嬉しくなるほどの場末だった。クルマも自家用車か小型の運送車が通るぐらいで、それも朝の八時なんて時間では、せいぜい家の前を通学の自転車が流れていく程度だった。活気のなさにもの足りなさを感じながら、この閑散とした環境が、意外にぼくは気に入っている。  パジャマにカーディガンを羽織って、下におりていくと、玄関ではグレーの背広を着た親父が靴べらで黒いローファーを履き終えたところだった。気にしたこともなかったが、小谷さんに言われてみると、六十ちかいサラリーマンとしてはそこそこに洒落者なのかも知れなかった。 「おう、シロウか。ご苦労だな」  なにがご苦労なのか、昨夜も帰ってきたのは、ぼくがベッドに入ってからだった。病院で会った以外、まともに顔を合わせるのは一週間ぶりだ。姉貴のこともあるし、小谷さんのこともあるし、それなりにぼくの労をねぎらったつもりなのか。 「どうだ。今日は、忙しいか」 「みんなほど忙しくはないさ」 「たまには昼飯でも食わんか」 「どうして」 「どうして、ということもないが、たまには、そういうのもいいだろう」 「たまには、ね」 「一時ごろ会社に来い。場所は分かるな」 「たぶん」 「受付けで名前を言えば分かるようにしておく。一時だ。それから、母さんには、内緒でな」  親父が咳払いをして玄関を出て行き、ぼくは半分呆れた気分で、眠気をふり払いながら、茫然と居間に入っていった。親父から昼飯に誘われたことも記憶にないが、うっかり返事をしてしまったぼくも、考えてみれば迂闊だった。親父と二人だけで顔を合わせて、三十分も一時間も、なにを語り合えというのだ。だいいちお袋には内緒というところが、どうも気にくわない。ぼくの将来について説教をするのなら、正々堂々、家族全員の前でやればいいではないか。  洗い物をしていたお袋が台所でふり返り、腰を伸ばすようにセーターの肩を回してきた。顔にはまだ化粧の気配はなく、膝下まである焦げ茶色のソックスは、相変わらずエスキモーブーツのようだった。 「早いじゃないの。洗濯物があったら出しなさいね。コーヒー、飲む?」  ぼくはコーヒーの件と洗濯物の問題を、頭の中で同時に処理し、コーヒーだけ頼んで、居間のガラス戸を一枚ぶん横に引き開けた。雨に濡れた塀と向かいの屋根の上に、うすい筋雲を浮かべた秋色の空がのぞいている。こんな天気のいい日に病院で寝ている姉貴も気の毒だが、アルバイトも決まらず、愚痴を言い合う家族もなく、あの殺風景なアパートで、山口明夜はどんな朝を迎えているのだろう。  ガラス戸を閉める気にならず、足先の冷たさを我慢しながら、ぼくは朝日の射す廊下に腰をおろして、色の濃くなった柿の実を少し憮然とした気分で眺めはじめた。ぼくが生まれたとき、住んでいた公団住宅の窓から赤い実をつけた柿の木が見えていて、それで親父がつい柿郎と名づけたのだという。春なら梅男か木瓜男《ぼけお》になっていたのだから、名前のことだけは、一応ぼくも幸運だった。  お袋がモーニングカップでコーヒーを運んできて、直接手渡し、ガラス戸の端に手をかけながら、大きく欠伸をした。 「喜衣の我儘にも困ったものだわ。病院で黒いネグリジェなんか着て、どうするつもりなのかしら」  念を押されなくても、その感想は昨夜も聞いている。お袋は自分の都合で、なん度でも同じ意見を言う。体調が悪くない限り、ぼくも黙って相槌をうつ。抵抗したって意味はないし、相槌をうつことがぼくにできる、唯一の親孝行だと思うからだ。 「それに呆れたけど、喜衣の飲んだ睡眠薬、今|流行《はやり》のあれなんですって」 「ハルシオン、だろう」 「お医者が言ってたわよ。あの薬ね、本当はお丼に一杯飲んでも死なないらしいわ」 「そのお陰で助かったんだから、いいじゃないか」 「だってシロウ、人騒がせにも程があるでしょう。わたしたちがどれぐらい心配するか、あの子には分かってないのよ」 「姉さんの精神状態が、不安定だったことは、確かさ」 「どうかしらねえ。睡眠薬のことを分かっていて、わざとやったのかも知れない。喜衣にはそういうところがあるのよ。見栄っぱりで我儘で、世の中が自分を中心に回らないと気が済まないの」  いくら自分の娘でも、自殺を図った相手に、そこまでの非難は限度を超えている気がする。 「困ったものよねえ。普通なら結婚して、子供ぐらい出来ていい歳なのに」と、ぼくのうしろに離れて座り、小皺の散った目尻で庭の日射しを見あげながら、お袋が言った。「喜衣ったらね、高橋という人のこと、どうしても言おうとしないのよ。頭が混乱して手が勝手に動いたなんて、そんなこと、あるはずないでしょう」 「姉さんがそう言うなら、そうじゃないのかな」 「森海生とシロウの名前は本物なのよ。高橋という人だけ、どうして架空の人物なの」 「混乱していた証拠さ。現実と幻想が入り交じって、姉さん自身では、収拾がつかなかった」 「信じられないわね。あの子、ぜったい隠してると思うわ」 「姉さんにだって母さんや父さんに言えないことは、ある」 「喜衣のことを全部知りたいとは思わないの。でも今回は特別でしょう。これだけの騒ぎになったわけだし、喜衣のことだから、また似たようなことを仕出かすわ。あの子ったら一度や二度では、まるで懲りない性格なんだから」  姉貴が懲りない性格であることぐらい、お袋に言われなくても承知している。今度の入院で高橋さんとのトラブルが解決するはずがないことも、予想はつく。だからといって親父とお袋とぼくと、団体で高橋さんと交渉に行くわけにもいかないではないか。 「ああ、尉鶲《じょうびたき》が来ている」 「なんですって?」 「木斛《もっこく》の木に腹の朱《あか》い鳥がいるだろう」 「どこよ」 「山茶花《さざんか》と柿の木の中間」 「あの雀みたいな鳥?」 「スズメ科だから、雀みたいではあるけどね。あの鳥が来ると冬が近いんだ」 「十一月だもの、鳥なんか来なくても冬は近いわ」 「母さん、素直でいいな」 「シロウこそ何をとぼけたこと言ってるの。風流にひたる歳ではないでしょう。この忙しいときに、もう少し真剣に家族のことを考えてちょうだい」  お袋がエプロンに両手をそろえて、反動と一緒に立ちあがり、自分で肩を揉みながら台所に歩いていった。姉貴の懲りない性格はお袋にも似ている部分があって、だからこそその似ている部分が気にくわないという、自家中毒的な怒りでも燻っているのかも知れない。 「ねえシロウ、本当に洗濯物、ないのね」と、風呂場に向かう途中で、柱の陰から顔を出し、腰を伸ばして、お袋が言った。 「昨夜着替えたさ」 「シーツとか枕カバーは?」 「まだいい」 「自分のことは自分でしなさいね。母さんはあなたの洗濯係ではないし、この家の小間使いでもないんだから」 「迷惑をかけないように、努力はしている」 「いつまでも学生気分が抜けないのよねえ。朝ご飯が済んだら病院にも行ってちょうだい」 「なんのこと」 「喜衣の病院よ。CDとか黒いネグリジェとか、荷物がたくさんあるの。あの子ったら温泉にでも行ってるつもりなのよ」 「それが学生気分と、どう関係があるの」 「ついでに言ってみただけよ。とにかくわたしは忙しいし、喜衣の我儘につき合ってる暇はないの。支度をしておくから、あとであなたが病院に届けてちょうだい」  お袋が床を軋ませて顔を引っ込め、なにかぼくは疲れてしまって、コーヒーを口に運びながら、庭の柿の木に向かって欠伸をした。木斛に止まっていた尉鶲は姿を消していたが、遠くの電線にはもう雀が集まっていた。風もなく、日射しも穏やかで、門も塀も庭木も雨の色に気持ちよく湿っている。いつまでも抜けない眠気が、風景の中から音を遮断する。面倒なことを考える気分にはならず、面倒な行動をしたい気分でもない。山口明夜と知り合った事実だけで、一週間でも二週間でも、本当ならひたすら充実して生きていけるはずなのに。  ぼくはコーヒーを飲み干してから、台所に行き、トーストを焼いて、冷めた味噌汁と目玉焼きで形だけの朝食をとった。お袋のバイオリズムでも伝染《うつ》ったのか、ぼくの人生もへんに忙しくなっている。カメラを担いで街をぶらついていた日が、もう一年も前のことのような、ずいぶん遠い記憶になっていた。     *  忘れていたフィルムを駅前のフォトスタジオに出し、渋谷の開生会病院に着いたのは午前の十一時だった。待合室には外来の患者が玄関ロビーにまで溢れ、診察室に向かう廊下には看護婦や付添い婦が肩で風を切るように歩いていた。病院の待合室がこれほど活気のある場所だとは、ぼくは、思ってもいなかった。  三階の病室にあがっていくと、ドアからちょうど男の人が出てきて、すれ違いながら、ぼくたちは廊下で、お互いになんとなく会釈をした。ダブルのソフトスーツに品のいいネクタイを締め、長めの髪はセットでもしたように、きっちりと耳のうしろに流した人だった。高橋さんかなと思ったが、年齢的には、まだ三十代の半ばのようだった。 「やあ。元気そうで、よかった」と、姉貴が元気であることぐらい承知しながら、うしろ手にドアを閉めて、ぼくが言った。「荷物を持ってきた。CDとかネグリジェとか、他にもなにか入っている」  姉貴はウールのガウンを羽織って躰を起こし、入院患者の定番とでも思ったのか、一つに束ねた髪をゆるく左の肩に垂らしていた。それでも化粧だけは見事に施されていて、どこまで状況を把握しているのか、少し、ぼくは疑問だった。 「母さんも気がきかないわよねえ。わたしのネグリジェぐらい、最初から持ってくればよかったのよ」 「娘が自殺を図るなんて、そうあることじゃないものな」  返事を待たずに、ぼくは空いているベッドに紙袋を置き、丸椅子を引き出して、とりあえずそこに腹をおろした。サイドテーブルに赤い薔薇が絶句するほど飾られていることは、病室に入ったときから気づいていた。自殺未遂患者の病室としては、少しばかり常軌を逸した光景で、親父やお袋がそんな心遣いをするはずもないから、いわゆる業界の仁義、というやつなのだろう。 「体の具合、どう?」 「二日もお酒を抜いたのよ。調子がよすぎて物足りないぐらい。覚悟はしてたけど、病院ってやっぱり退屈だわ」 「問題は心の傷さ。姉さん、見かけより、繊細だものな」 「そうでしょう。常識があればそれぐらい分かるでしょう。今度こそ会社の連中も思い知るわ。わたしは雑誌を作るロボットではないの。恋にも悩むし体調も崩す。繊細で気の弱い普通の女の子なのよ」  コメントできるはずもなく、ぼくは欠伸を我慢して、ゴムタイルの床に、そっとスニーカーの踵を滑らせた。 「さっき、部屋を出ていった人……」 「ああ、森海生ね」 「あの人が、森さんか」 「誤解していたわ。彼って思っていたよりフェミニストなの。すごいでしょう、この薔薇」 「薔薇……ね」 「やることがお洒落よねえ。普通なら花だけなのに、ちゃんと花瓶まで用意してきたの。そういう気の遣い方が素人とは違うところなのよ」 「連絡したのは、森さんだけ?」 「森さんだけって?」 「だから、例の、さ」  姉貴が軽く視線をはずし、ガウンの襟を整えながら、左肩の髪に、ゆっくりと右手をもっていった。 「連絡なんかしないわよ。森海生は編集長から聞き出したの。連載の打合せがあるし、彼、わたし以外の編集者とは仕事をしないと言うの。ぼんやり入院していても暇だから、こっちも丁度よかったわ」 「医者は静養が必要だと言ったろう」 「ボーナスのこともあるの。過労で倒れながらも仕事だけはつづけるという、美しいスタイルも必要なのよ」 「警察の、事情聴取は?」 「表面的なことを聞いていっただけ。わたしの心理があんな連中に分かるはずないの。向こうにしてみれば、ただの手続きの問題よ」 「うまく解決しそうで、よかった」 「それよりね、困ったのはここの医者のこと」と、束ねた髪を指先で弄びながら、枝毛でも探すような目で、姉貴が言った。「一週間毎日カウンセリングをやると言うの。外出も禁止。携帯電話も取りあげちゃって、そんなの、人権侵害よねえ」 「病院としても立場はあるさ。姉さんだって、風邪をこじらせたわけではないし」  開きかけた口を、姉貴が眉を寄せて元に戻し、肩をすくめてから、ベッドをおりて紙袋のほうに歩いていった。一週間の電話禁止は気の毒だが、それでこの騒動の責任が取れるなら、姉貴としても辛うじて納得のいく結果、ということなのだろう。警察を丸め込んだり息を飲むほどの花束を贈られたり、血のつながった姉弟だというのに、ぼくとのこの才能の差は、だれの責任なのか。 「あ、母さん、また忘れてるわ」と、紙袋から取り出したビニールポーチを開き、中身をベッドの上に振り出して、姉貴が言った。「シロウに似ていて、母さんって集中力が足りないのよね」 「なんのことさ」 「クレンジングクリーム。忘れないように、ちゃんと言っておいたのに」 「病院の売店でも売っている」 「ドクダミエキス入りの特別なやつなのよ。ほかのクリームとはお化粧のりが違うの」 「温泉に来ているわけじゃ、ないんだからさ」 「偉そうに言わないで。男のあんたには分からないの。気が滅入ってるときだからこそ、お化粧をぴったり決めたいのよ」 「化粧なんかしなくても、姉さんは、じゅうぶん奇麗さ」 「そんなことは分かってる。心構えの問題なのよ。森海生のことだってあるわ。いつだれがお見舞に来てもいいように、緊張感を持続させておきたいの」 「なあ、姉さん……」と、思わず椅子を立ち、ベッドの間を枕元のほうに歩いて、ぼくが言った。「緊張なんか持続させたら静養にならない。なにも考えないでのんびりするって、昨日は、そう言ったじゃないか」  姉貴が目の端をつりあげ、優雅に踵を回して、自分のベッドに戻ってから、ゴムタイル張りの床にぺたんとスリッパを響かせた。 「シロウも母さんも医者も、わたしの気持ちをまるで分かろうとしない。あんた、今度のこと、狂言だと思ってるわけ?」 「分かってないのは、姉さんのほうさ」 「わたしのどこが、どういうふうに分かってないのよ」 「お袋がなにを言おうと、医者がどう診断しようと、ぼくは姉さんを信じてるさ。だから高橋さんのことだって、だれにも、一言も言わなかった」  姉貴のつりあがっていた目が、正常な位置に戻り、部屋中の光を吸い込むように、黒目の部分が微妙に動揺した。ほかの男ならこの目つきで素直に陥落するのだろうが、ぼくの二十二年間のキャリアは、それほど甘いものではない。ここで下手な同情を示したら、姉貴の要求は倍になって返ってくる。高橋さんの問題を蒸し返しても姉貴の気持ちは変わらないだろうし、ぼくだって無理やり、そんな面倒には係わりたくない。 「他に用もあるし、今日は、帰る」 「もうすぐお昼食《ひる》じゃない。一緒に食べていったら」 「姉さんの元気な顔が見られれば、今日は、それでいい」 「薄情な男ねえ。わたしもシロウの気持ち、少しは分かりかけてきたのに」 「ぼくの、どういう気持ちさ」 「あんたみたいに暇な人生も、けっこう辛いものだなあって」 「その……」と、尻で病室の壁を蹴り、ベッドから離れて、ぼくが言った。「クレンジングクリームのことは、お袋に言っておく」 「クルマのエンジン、一度ぐらいはかけておいて」 「ぼくに言っても無理だ」 「エンジンぐらいかけられるでしょう。乗り回せとは言ってないわ」 「父さんに頼んでみるさ。エンジンをかけるだけなら、夜中だっていいわけだしな」  姉貴が呆れたような顔で、ベッドの上に膝を立て、まとめた髪を掌に包みながら、肩で小さく息を吐いた。赤い唇と、姉貴の赤いクルマと赤い薔薇が重なって、空気の色が、一瞬赤くなったような感じだった。病院のベッドよりも、クルマのシートでワンレングスの髪をなびかせる姉貴のほうが、ぼくのイメージでは、やはり納得がいく。  ベッドに躰を倒した姉貴に、ぼくは横向きに手をふり、ドアノブを押して、病室を廊下に出た。階段に向かって歩き出したときも、目の奥にはサイドテーブルにのっていた、あの息苦しくなるほどの赤い薔薇が残っていた。森海生という人もかなりのセンスだが、マスコミで仕事をするには、それぐらいのスタンドプレーは当然ということか。  薔薇の花を抱えて山口明夜の部屋を訪ねる自分の姿を空想して、ぼくは足が震えるほどの恐怖と、躰が熱くなるほどの陶酔を感じてしまった。     *  本社勤めの間も、子会社に移ってからも、ぼくが親父を会社に訪ねたことは、やはりなかった気がする。親父はもともと技術系の人間で、入社したのは家電メーカーの技術部門だった。十年ほど前、浄水器を作る子会社に新製品の開発責任者として出向した。今は企画開発部の部長で、本社に戻りそうにもないから、このまま定年まで子会社に残されるのだろう。仕事に関する知識はその程度なのに、電話番号を覚えていたり、会社の入っているビルを虎ノ門の『第三林ビル』と記憶しているのは、さすがに親子の絆というやつだ。姉貴のほうはたまに食事ぐらいはしているらしいが、それもぼくが勝手に思うだけで、事実としては聞いていなかった。姉貴はどこにでも顔を出す性格だし、親父にしてもぼくを相手にするより、姉貴のほうが精神衛生上好ましいのだろう。フロイト流に父子間の相剋と判断してもいいが、もっと普通に、ぼくはただの相性だと思っている。親父との食事や酒に経験はなくても、それで困ったことなど、実際に一度もなかったのだ。  地下鉄の虎ノ門駅から、桜田通りを少し東京タワーの方向に歩き、バイクを止めている郵便屋に教えてもらった第三林ビルは、思っていたより華麗な、広いロビーのある背の高い建物だった。親父の『アルファ精機』は四階と五階の二フロアを占めていて、受付けの表示がある四階まで、ぼくは小型のエレベータであがっていった。浦和からなら京浜東北線を新橋で乗り換えればいいわけで、通勤時間としては一時間もかからない場所だった。  エレベータをおりた正面には、木の衝立《ついたて》を置いた簡単な受付けがあり、愛想よく微笑んでくれた女の人に、ぼくも無理やりの笑顔を送り返した。初めて訪ねてきた倅が見るからにネクラな青年だったら、親父の社内的な立場に、いい影響があるはずはない。  しばらくして、親父が廊下の奥から姿を現し、ぼくに社内見学をさせるつもりはないらしく、会釈をしただけですぐに下のロビーに連れていった。家で見るより威厳を感じるのは、本人の能力ではなく、建物や受付け嬢や絨毯を敷いた廊下のせいだろう。  桜田通りを二百メートルほど麻布側に歩き、ぼくらが入ったのは、通りに面したビルの一階にある、ちょっと昼飯を食べる、というには高級すぎる感じの中華レストランだった。親父も毎日こんなところで食事をしているわけではないだろうが、初めて息子を呼び出したことでもあるし、見栄を張ってみたということか。  点心のコースとビールを注文してから、おしぼりで顔をぬぐい、取り出したタバコに火をつけて、親父が低く咳払いをした。向かい合った椅子に座ってはみても、躰の角度はそれぞれ別の方向だった。 「喜衣の病院は、寄ってくれたのか」と、やって来たビールを二つのグラスに注ぎ、一つを目でぼくに勧めて、親父が言った。 「元気だった。入院している間も、仕事をすると言ってた」 「人生には緩急が必要だという理屈が、どうも喜衣には分かってない。退院したら一度、ゆっくり言い聞かせてみるか」 「姉さんみたいなエネルギーも、羨ましいと思うけどね」 「男と女ではエネルギーの質が違うんだ。女というのは死ぬまで疲れんように出来てる。カマキリの雌は交尾の最中に雄を食い殺すというだろう。考えてみれば、なんだな、人間の世界も理屈は同じかも知れんなあ」  なにを言いたいのか知らないが、生物学と哲学をごちゃ混ぜにしても仕方ないわけで、女の人が生まれつき疲れない体質だというなら、親父が姉貴に人生を言い聞かせることにも意味はない。浄水器の開発に取り組みながら、毎日親父は、そんな悠長なことを考えているのだろうか。  料理が出はじめて、親父が自分のグラスにビールを足し、半白の髪を撫でつけながら、慣れた手つきで象牙の箸を使いはじめた。臙脂《えんじ》系のネクタイもグレーの背広に似合っているし、髪からもポマードのような油っこい臭気《におい》は伝わってこない。子供のころの記憶では黒縁の眼鏡を掛けていた気はするが、それが今は縁なしの、レンズの小さい洒落たものに代わっている。服装や髪型は姉貴がやかましく指導するから、その成果が出ているのかも知れなかった。 「で、シロウ、おまえのほうはどうだ。相変わらずカメラはやっているのか」  いよいよ来たな、とは思ったが、ここまできて回避するわけにもいかず、ぼくはグラスのビールを飲み干し、春巻を小皿に取りながら、うん、と軽く返事をした。 「一人前になるにはああいう世界も大変だろう。プロダクションに入るとか、プロのカメラマンに弟子入りするとか、考えてはいるんだろうな」 「考えては、いる」 「当てはあるのか」 「不景気でさ。なかなか、思うような仕事が見つからない」 「景気の問題ではないだろう。問題は意思じゃないのか。シロウが本気でその道に進むつもりなら、父さんだってコネがないわけではない」 「そういうのは、ちょっと、さ」 「ちょっと、なんだ?」 「コネとか縁故とか、そういうのは、好きじゃないんだ」 「現実は直視せにゃならん。世の中は縦とか横とか斜めとか、すべて人間同士の繋《つな》がりで出来てるんだ。それがいやなら仙人か浮浪者になるしか、生きていく方法はない」 「なにかが、なんとなく割り切れない」 「それでも時間は過ぎていく。なあ、みんな割り切れないまま社会に出て、悩んだり挫折したり、そういうことをくり返して大人になる。世間はシロウだけ特別扱いにしてくれんぞ」 「分かってはいるけど、時間が、ね」 「もうしばらく時間がほしい、ということか」 「結論は出る気がする。最近、そういう予感がするんだ。同じ働き蜂でもよく観察すると微妙に個性があるわけだし、人間なら余計に個体差が増幅される。父さんの言うことは分かるけど、ぼく自身の結論が出るまで、もうしばらく時間がほしいんだ」  蜂のたとえで煙に巻かれたのか、親父が眼鏡の向こうで瞬きをし、焼売《シューマイ》に辛子をのせて、むっつりと口にほうり込んだ。ぼくにしても話題から逃げようとしたわけではなく、結論が出そうな予感も、それが目の前に迫っている実感も、素直な本心だった。 「なあ、シロウ、話は変わるが……」と、象牙の箸を下に置き、おしぼりでまた額の脂をぬぐって、親父が言った。「おまえ、彼女のアパートに、行ったんだってな」  口の中に入っていた春巻が、食道の途中に引っかかり、むせてきた息と一緒に、もう少しで外に飛び出すところだった。 「父さん、なんで知ってるの」 「おまえのすることぐらい、お見通しだ」 「彼女と、いつ、知り合ったのさ」 「入社したときから知ってる。それがどうした」 「それは……」  思わず混乱したが、親父のいう『彼女』が山口明夜ではなく、小谷さんであることぐらい、本当は迷うまでもないことだった。お袋が喋るはずもないから、親父にぼくの訪問を告げたのは、小谷さん本人ということだ。 「行きたくは、なかったけどさ」と、春巻が胃の底におさまるのを待ってから、ビールに口をつけて、ぼくが言った。「今は家庭の平和が、ぼくの肩にかかっているらしいから」 「事情が分かっていれば話は早い。つまり、なんだな、要するに、そういうことだ」 「要するに、なに?」 「だから、要するに、そういうことだ。彼女に会ったのなら想像はつくだろう」 「ぼくはただ、手紙の内容を確かめに行っただけさ。誤解がなくなれば、それでよかった」  あの夜の几帳面に整理されたアパートの部屋と、小谷さんに感じた違和感が、遠くのほうから曖昧によみがえってくる。約束はしなかったが、それでも小谷さんは、『親父には喋らない』と意思表示をしたのではなかったか。 「シロウ、遠慮は要らないんだぞ」 「遠慮なんか、してない」 「それじゃ彼女は、シロウにどういう話をした?」 「手紙は悪戯か冗談だって。それだけさ」 「悪戯か冗談なあ。悪戯には違いないんだろうが、しかしなんとも、面倒なことになったもんだ」  親父が低く鼻を鳴らして、タバコに火をつけ、眼鏡を上にずらしながら、少しの間黙ってこめかみを押さえつづけた。ぼくのほうはへんに口の中が苦くなって、ぬるいウーロン茶で必死に口の渇きを我慢した。いい予感なんか当たったこともないのに、悪い予感だけは、いつもうんざりするほど的中する。 「いつかは分かることなんだが、実は、なあ、あの手紙、彼女が自分で書いたんだ」 「ああ……そう」 「あそこまでやるとは思わなかった。自業自得ではあるが、なんともはや、困ったもんだな」  親父の言葉は聞こえていて、言っている内容も理解できていた。しかしその状況に、いつまで待っても、言葉以上の実感は湧いてこなかった。素直に受け取れば、親父は手紙の内容が事実であり、それを書いたのは小谷さん自身だ、と言っているのだ。なにがどこでどう交錯しているのか、だれかの勘違いなのか。小谷さんはあの日、この件に関して、軽く否定してみせたではないか。 「ねえ、父さん……」と、湯呑を掌の中に入れたまま、尻の位置をずらし、親父の顔を遠くに見ながら、ぼくが言った。「つまり、父さんと小谷さんは、そういう[#「そういう」に傍点]関係だということ?」 「まあ、なんだな、そういうことだな」 「それは、まずいよ」 「まずくなければ相談なんかせんさ」 「そういうことは、姉さんの専門だ」 「喜衣には相談しようと思っていた。そうしたら、先に自殺を図られた。病院でこの話をするわけにもいかんだろう」 「だけど小谷さんは、迷惑をかけないと言った。母さんにも心配しないようにと」 「そこが彼女の面倒なところだ。本心でなにを考えているのか、一息掴みきれん。母さんにあの手紙を見せられたときには、正直言って、生きた心地がしなかった」 「手紙を見て小谷さんの字だと分かったの」 「そりゃあ、仕事でもプライベートでも、彼女の字はよく知っている」 「小谷さんも、認めた?」 「自分からそう言ったんだ。俺に早く結論を出せという意味らしい」 「結論……」 「よくある、まあ、あれだな。女房子供と別れて、自分と一緒になれという、そういうことだ。結論を延ばせば家に押しかけてくるかも知れん。言いたくはないが、喜衣のこともあるし、こいつはちょっとした地獄絵というやつだな」  本人が自分で言うのだから、そんなことになったら、たしかに地獄絵には違いない。不倫の果てに自殺を図った姉貴といい、たった四人の家族で、よくもここまでのトラブルを抱え込めたものだ。これでお袋がカルチャーセンターの講師と浮気でもしていれば、宣伝なんかしなくても、テレビのワイドショーが取材に来る。 「父さん。やっぱり、まずいよ」 「家庭には持ち込まないよう気をつけてはいた。それが仕事が忙しくて、つい彼女から目を離してしまった。俺だって普通の男だ。若くて奇麗な女性がそばにいれば、気持ちが動く。おまえの得意な鳥や昆虫は、浮気をしないのか」 「鴛鴦《おしどり》の雄でも浮気をするさ。学者が雛《ひな》の遺伝子を調べてみたら、みんな浮気をしていた」 「動物でも人間でも、雄というのはそういうふうに出来てるんだ。父さんもいいことをしているとは思わんけど、遺伝子の命令には逆らえんじゃないか」 「文化は、遺伝子に逆らってきたことの、歴史なんだけどね」  お袋の太い足に履かれているソックスや、疲れた目蓋や艶のない手の甲が、重苦しく頭の中を通過する。小谷さんの肉感的なふくらはぎや首をかしげた横顔も、影絵のように重なってくる。 「父さん。それで、どうするつもりなのさ」 「彼女の希望を受け入れたらいいという、そういうもんでも、ないだろうしな」 「別れる?」 「簡単に別れられれば苦労はせんさ。彼女とこういうことになったのは、一応父さんの責任だ」 「それなら小谷さんの希望するように、女房や子供のほうと別れるしか、仕方ない」  親父がタバコの煙を吐き、眼鏡の向こうから、ちらっと、蔑むようにぼくの顔を見おろした。 「無茶なことを言うな。今さら家庭を崩壊させてどうなる。父さんの立場からしたって、つまらん騒ぎは起こせんだろう」 「小谷さんにも母さんにも、つまらない騒ぎでは、ないさ」 「言葉のあや[#「あや」に傍点]というやつだ。彼女にも母さんにも責任は感じてる。しかしどちらか一方を選べばどちらかが傷つく。俺としてはだれも傷つけずに、なんとかこの場を収めたい。それが晴川の家にとっても彼女にとっても、最善の選択だと思う」  六十年近い人生経験で、親父の弁舌にも、意味不明な説得力はある。しかし言葉はどうでも、問題は『最善の選択』の実現だろう。ぼくだってだれかに傷ついてもらいたいとは思わない。そのだれかがお袋であっても小谷さんであっても、いい気持ちはしない。それに親父は忘れているが、家族の一員ということなら、ぼくだって当事者の一人なのだ。 「だれも傷つけないようになんて、話がうますぎる」と、小皿を遠くに押し出し、頭の中で深くため息をつきながら、ぼくが言った。 「結論は見えてるんだ。自分がどうしなくてはならないかも分かっている。シロウだって今、時間がほしいと言ったろう」 「ぼくのこととは問題がちがう」 「もう少し時間が欲しいのは同じだ。彼女との関係は一年もつづいている。それを明日から、こちらの都合で一方的に解消するというのも、人間として立派な行為とはいえん」 「現状維持で、誤魔化すの」 「そうではないんだ。問題を解決するよう、前向きに、積極的に努力は重ねるということだ。それにしても今日や明日に結論の出る問題ではないから、そのあたりで極力、おまえにも協力してもらいたい」 「ぼくに、なんだって」 「協力だ」 「なんの」 「シロウにだって家庭の平和に貢献する義務がある」 「それは、そうは、思う」 「俺も精一杯の努力はする。母さんにも余計な心配をかけたくない。だからもし、また彼女が手紙や電話でなにか言ってきたとき、そのあたりをだな、なんというか、シロウにうまく処理してもらいたい。今度の問題が穏便に済むかどうかは、おまえの努力|如何《いかん》にかかっている」 「そんな、うまく……」 「長い間とはいわんさ。彼女が納得するような、なにか妥協点が見つかるまでだ。母さんに知れて話がこじれれば、俺やおまえの努力が無駄になってしまう。母さんのためにも、彼女のためにも、それから家族全員のためにも、なあ、ここはなんとか、おまえに頑張ってもらいたい」  親父が残っていたビールを飲み干し、タバコに火をつけ直して、その煙を長く、ふーっと天井に吹きつけた。言われなくても、ぼくだって家庭の平和ぐらい考えている。お袋に無用の心配もかけたくはない。しかし親父の描いた筋書きどおり、こういう問題がそううまく収まってくれるものだろうか。今度の手紙といい、会ったときの印象といい、小谷さんには面倒な雰囲気が漂っている。親父は長い間ではないと言うが、お袋に知られないまま、この状態をいつまで保ちつづけられるのか。仮に持ちこたえたとして、思惑どおりに解決したとして、その結果、だれが喜ぶのだろう。 「そういうことでな、とにかく当面、今度の問題では共同戦線といこうじゃないか」と、忙しなくタバコをつぶし、一つ呼吸を置いてから、悠然と立ちあがって、親父が言った。「シロウ、もう一本、ビールでもどうだ」 「ビールでも老酒《ラオチュウ》でも、なんでも飲むさ」 「そのうち時間があったら、夜に一杯やろうじゃないか。ここの勘定は済ませておく。今日はこれから打合せがあるんだ。おまえはビールでも飲んで、ゆっくりしていくといい」 「父さん……」 「なんだ」 「母さんのこと、愛しているの」 「あ、愛しているさ」 「本当に?」 「そうでなければ、三十年も暮らしたりはせん」 「小谷さんのことは?」 「話を蒸し返すな。人間には間違いもあるし、ジレンマもある。シロウにだってそれぐらいは理解できるだろう」  親父がタバコをポケットに戻し、ネクタイの結び目を直しながら、乾いた咳払いをした。なに一つ納得できていないのに、親父のほうにだけ結論が出ているのは、どういう論理の展開なのだ。 「シロウ。なにか困ったことがあったら、遠慮なく言っていいんだぞ」 「姉さんのクルマ、エンジン、かけるようにってさ」 「入院してまで面倒なことを言うやつだ。おまえも暇なんだから、運転免許ぐらい取ったらどうだ」 「そのうち、ね」 「いざというとき頼りになるのは男の子だな。母さんのほう、とにかくうまく頼む。ビールは一本でいいか」 「いいさ」 「喜衣のこともよろしくやってくれ。なにしろ今、浄水器の新プロジェクトで手が放せん状態なんだ」  上着のボタンを掛けながら、眼鏡を光らせ、あとは会社で見たときと同じように、親父が颯爽と歩き出した。ぼくは呼び止める気にもならず、椅子の背に躰をあずけて、テーブルの下で強く絨毯を踏みつけた。親子とか姉弟とか、血のつながりを別にすれば、高橋さんのことも小谷さんのことも、本来ぼくには、なんの関係もないことなのだ。  やって来たビールを、ぼくは怒っている指先でたっぷりグラスに注ぎ、肩の反動と一緒に、えいっと胃に放り込んだ。隠れていた食欲が憤然と戻ってきて、店を借り切って宴会でも開きたい気分だった。親父も勝手だし、お袋も姉貴も勝手だし、それに高橋さんや小谷さんだって、へんに勝手ではないか。人を好きになったり嫌いになったり、つき合ったり別れたり、なにをしてくれても構わないが、そういうことは自分たちだけで、秘めやかに粛々とやればいいことだ。 「どうでもいいけど……」  声に出して山口明夜の口調をまねながら、焼売と餃子をまとめて箸に突き刺し、テーブルに深く肘を掛けて、意識的にぼくは欠伸をした。どうでもいいことではあるが、こんな面倒なときにまで、なぜかぼくは山口明夜の顔を思い出す。     *  乃木坂から青山墓地のまん中を抜け、そのまま行くと道はゆるいカープで四十五度に曲がっていく。鉤型の変則的な十字路で、左に曲がると根津美術館があり、道なりに曲がれば表参道の交差点に行きつく。カメラを担いでなん度か歩いた道だったが、酔いを冷《さ》ますだけの目的では、渋滞するクルマと都会の風景が排他的にぼくを迫害する。地下鉄に乗れば十分で来るものを、麻布から六本木を通り、ぼくは一時間も歩いていた。客観的には自棄《やけ》を起こしていて、主観的にも、じゅうぶん自棄を起こしていた。そうでなければ排気ガスだらけの通りを一時間も歩かない。高橋さんに会おうなどとも、思うはずはなかったのだ。  カーブに沿ったマンションの前を右に曲がり、小学校やレストランやモーターギャラリーを通り越して、二十分でぼくは表参道の交差点に出た。電話帳を見れば神宮前の『フレンチウエスタン』ぐらい調べられるだろうが、交番の前に、ちょうど暇そうなお巡りさんが立っていた。会社に訪ねて高橋さんが居るかどうか。たとえ居なくても、抗議の意思表示ぐらいにはなる。頭にのぼった血も少しはさがってくれる。  教えてもらった『フレンチウエスタン』は、交差点を五十メートルほど原宿方向に歩いて、毛皮店と雑居ビルの間を左に入っていった路地の途中にあった。五階建ての間口の狭い自社ビルで、外装は目が醒めるほど白く塗られていた。駐車場に通じる鉄扉や基礎石の色には、外観以上の年季が感じられる。高橋さんも二代目だというから、規模はともかく、個人企業から無理やり発展したアパレルメーカーなのだろう。  入っていくと、受付けらしい部署はなく、一階の突き当たりが広い事務室になっていた。目隠しに置かれた手前のカウンターには『受付け』と書かれた白いプラスチックの札が立っていた。女の人はみな私服で、男の人も変な色のワイシャツ姿だった。  もう酔いは冷めていて、自分の行動を一瞬不可解に思ったが、考えてみれば姉貴も高橋さんも、全員が不可解なのだ。ぼくは近くにいた女の人に、『晴川喜衣の弟』と名乗って取り次ぎを頼んでみた。女の人が社内電話をかけ、短い応答のあと、エレベータを指さして、直接五階まであがっていくように、と教えてくれた。ぼくは礼を言って事務室を通りすぎ、腋の下にいやな汗を感じながら、狭くて古いエレベータで五階にあがっていった。ここまでの行動に出たのは、ビールのせいではなく、親父が持ち込んだトラブルのせいだ。気が付いたらぼくの周りはトラブルの満載で、状況整理のためには無茶を承知でお節介をやく必要がある。姉貴の問題は高橋さんに登場してもらわない限り、どういう方向にも解決はしないのだ。  五階につき、『社長室』と『専務室』と札の出ている二つのドアを、しばらく見くらべてから、ぼくは覚悟を決めて『専務室』をノックした。中に入ると部屋はベージュ色の壁紙にペルシャ風の絨毯が敷いてあって、ブラインド前のデスクには髪を刈りあげにした、四十ぐらいの男の人が座っていた。背広は茶系にストライプの入ったソフトスーツ。ペイズリー柄のクラシックなネクタイを締め、鼈甲《べっこう》色の眼鏡をかけた鼻の下には、短くて濃い口髭を生やしていた。聞かなくてもその人が姉貴と不倫関係にある、最近奥さんに双子を産ませた専務の高橋さんであることは分かっていた。  ぼくは軽く頭をさげ、勧められるまま、革張りの応接ソファに根性を入れて腰をおろした。高橋さんに対して特別な先入観はなかったが、渋谷あたりの不良が突然おじさんになったような、ぼくの人生にはあまり縁のないタイプの人だった。 「ふーん、そう。君がカメラをやってる弟さん。名前はシロウくんだっけね」  使っていた万年筆を上着の内ポケットに差し込み、向かいのソファに脚を組んで、日に焼けた顔の目尻に、高橋さんが屈託のない笑みを漂わせた。気難しい人も苦手だが、こういうふうにフレンドリーだと、せっかく昂らせた闘争心が、つい萎縮してしまう。不倫相手の弟が会社に訪ねてきたのだから、まさか就職活動だとは思っていないだろうに。 「高橋さんのことは、姉からよく伺っています」と、壁にかかっているゴッホの複製画を眺めながら、膝に掌を重ねて、ぼくが言った。 「僕も君のことはよく聞いているよ。高校も大学も中退した、変わった経歴なんだってね。機会があれば一度会いたいと思っていたんだ」  人づきあいのいい人らしく、ぼくの緊張が空回りして、どうも調子が出てくれない。そういえば小谷さんもぼくの病歴を知っていたから、自分の知らないところで、ぼくも結構有名人だということか。 「姉から連絡は入っていますか」 「ええっと、なんの連絡かな。この前会ったのは、たしか……」 「三日前の夜だと思います」 「三日前の夜ねえ。そういえば、そうだったかな」 「本当に、連絡は、ないんですか」 「三日前に会ったばかりだもの。君も喜衣さんから聞いているだろうが、僕のほうには事情があってね、そう頻繁に会うわけにはいかないんだ」  不倫でも浮気でも、ここまで軽く対処できれば、立派なものだ。相手に合わせて、姉貴のほうも軽くつき合っていればよかったのに。 「双子の子供が、生まれたそうですね」 「そんなことまで知ってるの。まいったなあ。そうか、それで喜衣さん、怒っているということか」 「かなり怒っています。怒って、姉は、自殺を図りました」  高橋さんの口髭が、口と一緒に耳の方向に歪み、眼鏡がずり落ちてきて、頬の毛穴に気の毒なほどの動揺が浮きあがった。 「ああ、ええと、今、自殺を図った、と言ったんだね」 「一昨日の夜、二週間ぶんの睡眠薬を飲みました」 「睡眠薬を、二週間ぶん?」 「命に別状はありません。でも遺書に高橋さんの名前を書いていたし、原因が二人のトラブルにあることも分かっています」 「まいったなあ。君、それ、本当の話?」 「散歩の途中に寄るほど、ぼくも暇ではありません」 「いや、その、どう言うか、つまり、自殺までする感じはなかったのに……命が助かったのは不幸中の幸いとして、遺書に僕の名前を出したというのは、それは、うまくないよ」  遺書になんか名前を書かれて、もちろん都合は悪いだろうが、姉貴が死んでいたとしても、高橋さんは『うまくない』という感想しかもたないのだろうか。 「それにしてもまいった。君、このことは、だれが知っているんだね」 「家族と、姉の上司と、警察です」 「警察? すると警察が、僕のところへも、事情を聞きにくるんだろうか」 「姉は隠し通したと言ってます。父や母も高橋さんのことは知りません。ぼくもそういうことは、宣伝して歩きません」  高橋さんが息を止めて、苦しそうに唾を飲み、ネクタイを弛めながら、喉仏を見せて深くソファの背に寄りかかった。 「そういうことだとすると、シロウくん、喜衣さんの命に別状はないし、僕にも問題は及ばないということだね」と、取り出したハンカチで額の汗を拭き、脚を組みかえながら、高橋さんが言った。 「姉の心以外に、問題はありません」 「それは了解した。まさか自殺を図るとは思わなかったが、生きていてくれたからこそ、善処もできるわけだ。で、喜衣さんは、どこの病院?」 「渋谷の開生会病院です」 「意識は正常なんだね」 「入院中も仕事をすると言ってます」 「それはまた喜衣さんらしい。いや、早速、見舞いに行く必要があるな」  頬の緊張が消え、額の汗も薄くなって、高橋さんの忙しかった目の動きに、失礼なほどの冷静さが戻ってきた。 「その前に、姉との関係をどうするか、決めてもらえませんか」と、ソファに座り直し、腋の下の冷汗を空しく感じながら、ぼくが言った。 「そうか、そういうことか。うっかり見舞いに行ったら、藪蛇になるわけか」 「高橋さんに決めてもらうしか、解決の方法はないと思います」 「しかしなあ、シロウくん。こういうことは僕が一方的に決めるわけにはいかないだろう。少なくとも僕と喜衣さんの、二人の問題なんだから」 「高橋さんの奥さんや、お子さんまで含めた問題です」 「や、そこなんだなあ。それを言われると面目ない……喜衣さんはそのことに関して、君になにか話してるかな」 「姉は高橋さんが離婚して、自分と一緒になると信じていたそうです」 「僕も、そのつもりではいたんだが、偶然子供が生まれてしまってね。家内のほうと思うように話が進まない。喜衣さんには理解してくれるように、話したはずなんだが」  聞いたような言い訳で、たいして腹も立たないのは、親父の件で免疫ができてしまったせいだろう。 「自分では子供を産まなかったのに、奥さんに双子では、姉も納得しないと思います」 「それはそうだ。喜衣さんの気持ちは分かる。なるほど、そう、彼女、以前に子供をおろしていたの」 「知りませんでしたか」 「そこまでは知らないよ。喜衣さんにだって言い難いことはあるだろうし」 「高橋さんの子供ですけどね」 「僕の子供は……」  高橋さんの肩が、弾かれたように動き、ソファがへんな音に軋んで、困惑した視線が眼鏡の向こうからしばらくぼくの顔にそそがれた。 「君、今、なんて言った?」 「姉は高橋さんの子供をおろしました」 「いや、それは、なあ、シロウくん……」  不倫に励むならもう少し覚悟を決めればいいはずなのに、親父も高橋さんも、いざとなるとどうして、ここまで情けなくなるのだろう。 「君、いくらなんでも、その話はおかしいよ」と、ソファの中で躰の位置を直し、ズボンの折り目を指でなぞりながら、高橋さんが言った。「喜衣さんが僕の子供をおろしたなんて、そんなことはありえないさ」 「ありえませんか」 「それはそうだろう。自分の子供ということなら、僕だって当事者だからね、喜衣さんが相談しないはずはない。それにそういうことは、気配で気がつくものだよ」 「姉が、高橋さんに、遠慮をしたとか……」 「君ねえ、僕にでもだれにでも、彼女が遠慮なんかすると思うかね」  返事に詰まったのは、弟として、肯定していいのか否定していいのか、思わず判断に迷ったからだった。 「いったい喜衣さんは、君にどういう話をしたんだ?」 「今年の春、つまり、そういうことをしたと」 「今年の春ねえ。覚えがないなあ。やはり君、なにかの間違いだよ。たとえ他の男の子供だとしたって、僕が気づかないはずはないと思うね」 「四月の初めごろ、ベトナムへの取材だと言って姉が家を空けたことがあります。そのとき千葉の病院に入院したそうです」 「それは覚えている。覚えているけど、喜衣さんが行ったのは病院でもベトナムでもなく、シンガポールだった」 「シンガ、ポール?」 「間違えるはずはない。僕と一緒だった。四月第一週の日曜日から四日間、僕と喜衣さんはシンガポールへ旅行をした。それぞれ口実は作ったわけだが、旅行をしたことは事実だよ。嘘だと思うなら、パスポートを見せようかね」 「はい。いえ……」 「喜衣さんのパスポートにだって出入国印は押されている。日付けの確認は取れると思うよ。だからね、そのころ彼女が病院で何かをしたというのは、まったく考えられないんだ。喜衣さんとのつき合いは認めるけど、子供|云々《うんぬん》という話は、どう考えてもありえないな」  耳がじんわりと熱くなって、居心地の悪い冷汗と姉貴に対する不信が、尻の下から首筋の方向へ、螺旋状に這いあがってきた。姉貴との関係を認めている高橋さんが、今さら嘘を言っても仕方ない。子供の件だって否定する必要はないだろう。客観的に考えれば、取材だと言って病院に入院するより、不倫相手と旅行をするほうが姉貴には似合っている。酒に酔っていたとはいえ、姉貴はどういうつもりで、あんなことを話したのだ。 「この期におよんで言い逃れはしないよ。だけどどこで間違ったのか、子供のことだけは覚えがないんだな」 「そのことは、もう、いいです」 「しかしそれなら、君は僕に、なにを言いに来たのかね」  旅行のことも事実で、子供の件も、たぶん高橋さんの言うとおりだろう。しかし姉貴の自殺未遂まで、すべて片付いたわけではない。 「機会があったら一度、高橋さんに会いたいと思っていました」 「それはまた、光栄なことだ。時間があれば夕飯でも食いたいところだが、今日は仕事が詰まってるんだよ」 「姉のことはお任せします。面倒な性格ですから、放っておけば同じことをくり返します」 「脅かしてはいけないよ。自殺されてその度に遺書に名前を書かれたのでは、僕の家庭が崩壊してしまう」  姉貴と結婚するということは、今の家庭を崩壊させるということだ。そんな理屈ぐらい、高橋さんだって承知しているはずではないか。 「まあ、その、なんだ……」と、ぼくの気配に気づいたのか、口髭の下からきれいな差し歯をのぞかせて、高橋さんが言った。「喜衣さんと結婚するにしても、結論を出すには時間がかかるんだよ。そういう理屈は君にも、ぜひ分かってもらいたいな」 「姉にまた自殺なんかさせないように、そのことだけ、お願いします」 「委細承知した。僕だって責任を回避するわけじゃないんだ。喜衣さんのことも本気で考えている。君は安心して、この問題は大人の判断に任せておきたまえ」  そこまで宣言されて、これ以上ぼくに、なにを言い返せというのか。それに考えてみれば、もともとここに来たこと自体が要らぬお節介なのだ。高橋さんも得体が知れないし、こういう人と三年間も不倫をやっていた姉貴は、ぼくなんかに理解できない特殊な価値観があるのだろう。言うことは言った。知らせることは知らせた。高橋さんの台詞ではないが、これ以上はもう、大人の判断に任せるしか方法はない。  ぼくは腹の底で嘆息しながら、重い腰で立ちあがり、ソファの横に出て、高橋さんに深く頭をさげた。 「コーヒーを出すのを忘れていた。シロウくん、今度は暇なとき、ゆっくり遊びに来るといいよ」 「お忙しいところを、お邪魔しました」 「とにかく用件は承知した。僕の名誉にかけて善処すると約束しよう。ところで君、喜衣さんから聞いているかな」 「はい?」 「今度生まれた双子の名前さ」 「いえ」 「二人とも女の子でね。上がマリで下がハナ。つづけるとマリファナになる。我ながらひじょうに傑作だと思うんだよ」  ドアを開け、廊下に出てから、大きく背伸びをして、ぼくは目いっぱいに深呼吸をした。自分の世界が狭すぎることは自覚していても、姉貴の交友関係は、少しばかり広すぎる。姉貴の人生にのんびり介入できるなどと、ぼくはどこで勘違いしていたのか。今でも説教をするのは姉貴のほうで、金を貸してくれるのも姉貴で、子供のころだって、迷子になったぼくを捜してくれたのはいつも姉貴だった。泥沼に嵌まろうと地獄に落ちようと、姉貴のような人は、たぶん、道にだけは迷わない。     * 『フレンチウエスタン』を出たときは日も落ちきっていて、薄闇と街燈の中をクルマがライトをつけて交錯し、落ち葉の散る表参道をだれもが急ぎもせずに歩いていた。竹下通りをぶらつく気にもならず、ぼくは表通りを原宿の駅まで歩き、ラッシュの始まった山手線にぼんやりと乗り込んだ。  姉貴も外での交遊は拍手したいほど活発で、それは親父にしたって同じことだ。痂《かさぶた》が剥がれるように、それぞれの本音は出はじめていても、だからどうなのだと言われれば、どうでもない。寝て、起きて、朝飯を食べて出て行き、夕方から夜中にかけてぱらぱらと帰ってくる。家族の基本的なリズムは一定していて、それでだれも、不便に思うことはない。家というのは、することがあるから帰るのではなく、何もすることがないから帰る場所なのだろう。  新宿で山手線を埼京線に乗り継ぎ、池袋を通りすぎたころには、ぼくはもう赤羽で途中下車することに決めていた。家でお袋の話に相槌を打つのも煩わしいし、たまには衝動だけの行為もやってみたい。町をほっつき歩いて、冬のコートでも見て、旨そうなラーメン屋があったら寄ってみてもいい。山口明夜のアパートへ行くのか、行かないのか、そんなことは電車をおりてから決めればいいことだ。  昨日と同じ東口に出たのは、六時を少し過ぎた時間で、日は暮れきり、勤め人や高校生の集団が狭いロータリーをざわめきながら無方向に行き交っていた。耳に触れる空気は冷たく、街燈の光には人いきれの暖かみがあって、荒川が近いせいか、都心よりもいくらか湿度が高い感じだった。  山口明夜の顔が見たければ、アパートに行くこともできた。声が聞きたければ電話もできる。こんな時間に部屋に閉じ籠っているとも思えないが、山口明夜のことは、まだなんとなく分からない。ボーイフレンドがいるのか、いないのか、その肝心なことが分からないのだ。  風に吹かれながら、ぼくは山口明夜の大きすぎるほどの目と、右の目蓋に散っている星のようなソバカスとを、漠然と思い出す。化粧やファッションに興味がないことは分かっている。映画や音楽に凝っているとも思えない。表情や口調は投げやりだが、どこかに率直な情熱も感じられる。高校時代に長距離の選手だったという経歴も意外で、しかしそれなら、卒業してからの四年間は何をしていたのか。東京の子ならアパートでの一人暮らしはしていないだろう。あの部屋にも長く住んでいる気配はない。部屋に入れてくれたり駅まで送ってくれたり、山口明夜なりに好意を示してくれたと思うのは、それはやはり、希望的観測が過ぎるだろうか。  どこへ行く当てもなく、町の地理も分からず、街燈がつづいている大通り沿いの歩道を、人の流れに任せてぼくは胸苦しい気分で歩きはじめた。電話をして山口明夜が部屋にいなければ気が抜ける。いたとしたら、どう対処していいか分からない。二日もつづけて『偶然通りがかった』では、いくらぼくでも気がひける。  山口明夜のアパートとは別な方角だったが、それでも大通りに面した一画が赤羽の繁華街らしく、途中からはアーケードのある『すずらん通り』という商店街に変わってきた。近くには大型スーパーの看板も見えていて、人の流れもその辺りに漫然と凝縮されていくようだった。商店街を突き当たりまで歩き、見物したい店もなく、ぼくはまたアーケードを引き返して、煎餅屋のとなりにあった小さい書店に入ってみた。苦手な分野ではあっても、山口明夜を理解するには、少しぐらい陸上の知識も必要だと思ったのだ。  ふだんはカメラ雑誌か自然科学系統の本しか目に入らないのに、その気になって眺めると、スポーツ誌のコーナーにはボクシングから卓球まで、だれが買うのか訊いてみたいような雑誌が埃も被らずに並んでいた。陸上に関する雑誌は『走人』と『ザ・リクジョウ』の二誌があって、『走人』のほうがマラソンや駅伝の長距離競技向け専門誌のようだった。ぼくは十分ほどコーナーで立ち読みをし、とにかく『走人』を買って店を出た。雑誌にはマラソンランナーやコーチのインタビュー記事ものっているから、走る人間の心理について、いくらかは勉強になる。気づくのが遅かったが、ぼくと山口明夜の間には、犬のこと以外なに一つとして共通の話題がなかったのだ。  本屋を出てから信号のある交差点を駅側に渡り、ファッションビルの賑わいに足を止めたときには、もう七時になっていた。親父からは手に余る告白をされ、昼間からビールを飲んで、そのうえ虎ノ門から原宿まで歩いてしまった。高橋さんとの談判は余計だったにしても、ぼくが疲れるのは当然のことだった。山口明夜に会った日から四日間、自分の人生で、ぼくは最高に忙しい時間を過ごしていたのだ。  駅に戻ることに決め、人通りの多くなった歩道に視線をやったとき、見覚えのある生成りのカーディガンが目に入って、とっさにぼくは人混みに身を隠しそうになった。ビールの酔いは冷《さ》めているし、今日は幻覚を見るほどの寝不足でもないはずだった。  ぼくは駅からやって来る人波を車道側によけ、少しだけ前の女の子に近づいて、斜めうしろから背の高さと歩き方を確認してみた。コーデュロイパンツもショートブーツも、やはり山口明夜のもので、となりには荒川の土手で見かけた色の黒い男の人も歩いていた。アルバムの写真にも写っていたし、この男の人は、どういう素姓なのか。マラソンのコーチなら土手か陸上競技場で会えばいい。二日もつづけて、それもこんな町なかを肩が触れるような距離で歩く必要はない。歳が離れているといっても、姉貴や親父の例もある。  ロータリーの手前まで来て、二人が立ち止まり、ぼくの足もビルの陰に空しく立ち止まった。山口明夜のシルエットが白くふくらみ、短い髪が風に吹かれて、広い額が意志の強そうな輪郭で浮かびあがった。うなずく顎の線が見え、首を横に振る仕草が見え、すくめた肩の角度までも、目の前の風景のように鮮やかだった。男の人の表情は見えず、二人の会話は聞こえなかった。ぼくの視界には山口明夜の暗い目の動きだけが、ただ拡大されて揺れつづけていた。  三分か、五分か。二人が同時に背中を向けあい、山口明夜はアパートの方向へ、男の人が駅の券売機のほうへ、ふり向きもせずに歩き出した。映画の中のシーンを見ているようで、ぼくには実感が湧かず、拡散する集中力でただ二人の遠影を見くらべていた。  山口明夜が通りを渡って線路沿いに消え、男の人も駅前の雑踏に姿を消し、戻ってきた喧噪やクルマのエンジン音に、ぼくの意識も、徐々に現実のバランスを取り戻しはじめた。追いかけて『今の人とはどういう関係か』と訊いたら、『他人《ひと》には関係ない』と言い返されるに決まっている。そんなことをしたら、もう山口明夜には会えなくなる。マラソンの練習が終わってたまたま食事をしたとか、買い物につき合ったとか、実際はそれだけのことなのか。それともなにか、高校時代からつづいている、選手とコーチという以外の特別な関係でもあるのだろうか。分かってしまえば安堵でも絶望でも、具体的な感情として感じられるはずなのに、この疑心暗鬼がぼくに惨めな不安を押しつける。  人波がなん度も押し寄せ、ロータリーからバスが出て行き、ぼくも生きている自分を発見し、惨めな気分のまま、券売機に歩いて切符を買って、改札を抜けて地下通路を通って、人混みを分けて階段をのぼって、やって来た京浜東北線に惨めに乗り込んだ。途中下車なんかしなければ、高橋さんにさえ会わなければ、親父と食事をせず、姉貴なんか病院に見舞わなければ、今日のぼくが、ここまで落ち込む必要はなかったろうに。 [#改ページ]     5  コールテンのジャケットにチノパンツ。着ているものはいつもと変わらないのに、水道橋の駅を出るころには顎の下に汗がにじんでいた。スチール写真のように空の青い、よく晴れた日で、ぼくは脱いだジャケットを片手に白山通りを神保町の方向へ歩いていた。『走人』を発行している『スポーツトピックス社』は西神田の二丁目にあって、バックナンバーはすべて揃えてあり、会社まで足を運べば閲覧も可能ということだった。  山口明夜がだれで、どこで生まれてなにを考えているのか。直接訊けばいいと思いながら、透明な幕が冷たくぼくの勇気を跳ね返す。身元調査みたいなことはしたくないが、たとえ歴史の周辺だけでも、いくらかは山口明夜に近づきたい。百メートルをなん秒で走って、姉弟がなん人いてどんな食べ物が好きなのか。そんなことが分かるだけでも、ぼくはずいぶん元気に生きていける。  大通りを神保町の手前で右に曲がり、付近を五分ほど歩き回って見つけた『スポーツトピックス社』は、階段をあがるだけでも決意がいるような、手摺りの傾いている雑居ビルの二階に入っていた。雑誌倉庫の中にかろうじてデスクと人間が同居している感じの、活気のない会社で、ブラインドの内側には埃と紙の匂いとタバコの煙が争うように渦巻いていた。  応対してくれたのは、一人で雑誌の山に埋まっていた五十ぐらいの男の人で、ぼくに特別な興味は示さず、衝立で仕切られた物置のような部屋にあっさり案内してくれた。窓のない六畳ほどの部屋には天井までの高さにスチールの書架が並び、年度別に綴じられたファイルが崩れるほどに積まれている。『走入』以外の雑誌も含めて、狭い部屋は古紙のトンネルのようだった。  ぼくは山口明夜の年齢を逆算し、五年前のファイルを取り出して、最初の号から目次に目を通しはじめた。一冊が一センチに充たない雑誌でも、一年ぶんの目次調べには時間がかかる。次年度の号に移るまでには、三十分の時間が必要だった。  次のファイルに取りかかり、諦めかけたころ、目次の中に突然『山口明夜』の名前が浮かびあがって、人がいないことを幸い、ぼくは思わず指を鳴らしてしまった。雑誌に記事が出ているということは、やはり有名人なのだ。山口明夜との距離が近くなったのか、遠くなったのか、少しだけ、ぼくは複雑な気分だった。  記事がのっていたのは、十二月号の六十二ページで、思いがけずひょうきんな表情を見せている写真入りのインタビューだった。『全国高校女子駅伝選手権大会優勝、華北女子学園アンカーの山口明夜さん』とあるから、アルバムで見た記念写真を写した直後のインタビューだろう。内容はレースをふり返っての感想や、次の目標や進路などが単調に並んでいるだけの、関係者以外には興味を持ちそうにない記事だった。ぼくは山口明夜の出身が宮城県の石巻市であり、本格的に陸上競技を始めたのが中学一年のとき、それから仙台市の華北女子学園に進み、将来はマラソンランナーを目指しているというところまで、仕込める情報はすべて、細心の注意力でチェックした。補足記事には『トラック三千メートルの高校記録保持者』という説明まであって、実感は湧かないまま、単純に尊敬してしまった。荒川の土手から雨に追われて走ったときは、ぼくのために手加減をしたということだ。記事の最後には監督の手塚修司という人が『膝の柔らかさと腰の強さは天性のものであり、山口明夜は将来、間違いなく日本のトップランナーになる逸材』と談話を寄せていた。  雑誌のインタビューなんて、大袈裟に書いたり意味もなく褒めたりするものであることぐらい、ぼくだって承知している。それでも彼女が優勝チームのアンカーであることは事実で、トラックでの高校記録を持っていることだって、物凄いことではないか。チームの監督が『トップランナーになる逸材』とまで言い切るのだから、自信もあってのことだろう。野球選手なら超高校級のドラフト第一位というやつだ。そこまで才能のあった山口明夜が、陸上界の実情はどうであれ、なぜアルバイトをしながら、あんな殺風景なアパートで一人暮らしをしているのか。 「ふーん。おたく、そんな記事を見に来たの」  突然声をかけられて、前にのめりそうになったが、いつの間にかさっきの男の人がうしろに立っていて、湯呑をテーブルに置きながら肩越しにぼくの手元を覗いてきた。足音を忍ばせたわけでもないだろうに、開いたページに熱中していて、うしろの気配にまで気がまわっていなかった。 「うちのバックナンバーなんか調べるやつ、滅多にいないんだよなあ。おたく、山口明夜となにか関係があるの」 「アルバイトで、知り合っただけです」 「アルバイトねえ。そのアルバイト、彼女もやってるのかね」 「もうやめました」 「どんなアルバイトか知らんけど、惜しいことをしたなあ。マラソンをつづけてれば、オリンピックにも出られたろうにな」  男の人がワイシャツの胸ポケットから、タバコを一本抜き出し、使い捨てのライターでのんびりと火をつけた。うすい髪を耳のうしろに長く伸ばした、髭の濃い人だったが、禿げあがった額の光り具合には無邪気な人のよさも感じられた。 「やっぱり、彼女、有名なんですか」と、タバコの煙を避けながら、湯呑をどけ、ファイルを男の人のほうに押し出して、ぼくが言った。 「おたく、陸上には詳しいのかね」 「まるで知りません」 「そうだろうな。関係者なら覚えてるはずだものなあ。高校時代は天才ランナーと言われて騒がれた。あれから四、五年はたってるのかなあ」 「彼女、高校以降、走るのをやめたんですか」 「しばらくは走っていたさ。企業の陸上部に入ってな。惜しいことに、そこでトラブっちまった」 「怪我か、なにか?」 「心の問題だろうよ。人間関係の軋轢《あつれき》ってやつ。とにかく若い女の子だし、この業界も面倒が多いわけさ」  男の人がくわえタバコのまま、雑誌のページをめくり、また元に戻して、肉の厚い尻をもぞっとテーブルに持ちあげた。 「このインタビュー記事、俺が書いたんだ。惜しいことをしたよなあ、才能だけなら間違いなく世界に通用したんだが、環境が悪かった。彼女にも運がなかったということかな」 「人間関係のトラブルというのは、どういうことでしょう」 「嫉妬や誤解や策略や、そりゃあ、いろいろあるさ」 「いろいろって?」 「金も絡む。協会内部の勢力争いもある……おたく、同じアルバイトで、聞いていないのかね」 「彼女は、なにも言わない人でした」 「そんな山口明夜を、なぜ君が調べている?」 「その、それは、個人的な興味です」 「個人的な興味? ふーん、そういうことか」  男の人が壁に長くタバコの煙を吹き、禿げあがった額をこすりながら、髭面の頬に、にやりと薄笑いを浮かべた。 「この業界もなあ……」と、雑誌に目を細めながら、薄笑いを浮かべたまま、男の人が言った。「選手のスカウトとか引き抜きとか、そのへんで意外に大きい金が動くんだ。彼女を取るのにネイチャー化粧品は、一千万の金を積んだという噂だ」 「一千万?」 「そりゃそうだろう。冬になればマラソンの中継も多い。オリンピックや世界選手権もある。企業としてはとんでもない宣伝効果さ。山口明夜は顔だってこの通りだ。化け物みたいな女が歯を食いしばって走るのとは、わけが違うということだ」 「やめた理由は、金ですか」 「詳しい事情は知らんよ。でも噂はいろいろあった。この記事にも出ている手塚修司という監督な、この男は華北女子学園の監督だったんだが、山口明夜と一緒にネイチャー化粧品の監督に就任した。山口明夜を自分の手で育てたかったのか、それ以上の関係があったのか、とにかく、まあ、金も絡んで、そのあたりからいろいろトラブルが起きたわけだ。手塚がネイチャー化粧品をやめて、山口明夜も退部して、あとのことはどうなったか分からん。俺もおたくが来るまで、山口明夜のことはすっかり忘れていた」  男の人のタバコが、ズボンを汚してぽとりと床に落ち、テーブルが金属的な音に軋んで、紙の埃くさい臭気が湯気のように押し寄せた。覗いてはいけない山口明夜の過去が、灰色の澱みの中から、息を止めてぼくの単純さを非難する。 「おたくねえ、必要ならそのページ、コピーしてもいいよ」と、床にタバコを放り、衝立を向こうに歩きながら、男の人が言った。 「読むだけで、結構です」 「ほかに記事はないなあ。あったとしても、駅伝のオーダーに名前が出てるぐらいだ」  ぼくはハレーションを起こしている自分の頭の中を、しばらく茫然と眺めてから、それから腰をあげ、ファイルを棚に戻して、床のタバコを踏みつぶしながら事務所に入っていった。男の人はもうデスクに戻っていて、新しいタバコに火をつけ、天井に向かって一つ、大きな欠伸をしたところだった。 「監督だった、手塚という人のこと……」と、持ってきた湯呑をデスクに置き、悪寒を振り払って、ぼくが言った。「なにか、ご存知ですか」 「手塚修司ねえ、彼も大学時代は、中距離の選手だった」 「色の黒い、肩の尖った感じの?」 「陸上の連中はみんな日に焼けてるさ」  男の人がうすい髪に指を入れながら、メモ用紙を差し出して、ちらっとぼくの顔をうかがった。 「この紙に住所と名前、書いてくれんかね。閲覧者に対する決まりなんだよ」 「歳は四十ぐらい?」 「年齢までは要らんが、君が四十ということもないだろう」 「そうではなくて、手塚さんの」 「ああ、手塚修司ね。あのころ三十五、六だったから、もう四十になったかな。そういえば彼、ネイチャー化粧品をやめたあと、奥さんとは離婚したという話だ」  男の人の吐き出すタバコの煙が、排気ガスのように、強くぼくの喉を刺激する。これだけ埃と黴の臭気が充満しているのに、なぜこの事務所は換気をしないのだろう。  ぼくは書き終えたメモ用紙を男の人に返し、礼を言って、自分の馬鹿さ加減に呆れながら、一気に事務所の階段を駆けおりた。自己嫌悪ぐらいいくらでも知っているはずなのに、こういう大型の衝撃は、相手が悪すぎる。山口明夜の素姓が分かれば元気に生きていけるなどと、なにを呑気に考えていたのか。勝手に動き回って、勝手に納得して勝手に悲観して、得たものがこの混乱だけというのでは、ぼくは、あまりにも間抜けすぎる。  一時間も歩きつづけ、自分が歩きつづけていることに気づいたときには、皇居の堀を半周して、三宅坂までやって来ていた。昨日も虎ノ門から神宮前まで歩いたわけだから、どうもぼくには、怒ると意味もなく歩きまわる癖があるらしい。空気の曖かさは変わらず、雨の気配はなく、天気もぼくと同じで、自己嫌悪の混乱を起こしているのかも知れなかった。  内堀通りの歩道に立って、しばらくクルマの流れる風景を眺めていたが、三宅坂を新宿方面に向かうバスを見つけ、角の停留所からぼくはそのバスに乗ることにした。歩きまわるのは怒っているからで、それならなぜ怒っているのか、理由は分からなかった。山口明夜が天才といわれた長距離ランナーであったり、走るのをやめたり雲隠れしたり、そんなことで、なぜぼくが怒るのか。企業がらみで大金が動いたという噂や、つきまとう手塚修司という人の影が、なぜ気分を滅入らせるのか。テレビとベッドしかないアパートの部屋で、食事もつくらず、音楽も聴かず、山口明夜はなにを考えて暮らしているのだろう。  JRの新宿駅につき、ぼくは駅ビルのショッピング街で、意味不明な衝動買いをした。ほとんど自棄ではあったが、ピンク色のギンガムチェックのカーテンは、山口明夜が無頓着に掛けているものより、ずっと趣味はいいはずだった。     *  まだ明るい赤羽の駅前を、商店街から岩淵町の方向に歩き、交差点を赤羽三丁目側に渡ると、路地の奥に小学校の塀が見えてくる。『せせらぎ荘』も『やまぐち』の丸文字も、日の当たらない外階段も灰色の壁も、持ち歩いていた風景絵のように、きっちりとぼくの記憶に嵌まってくる。  ぼくは紙袋を抱え直して、外階段をのぼり、緊張が襲ってくる前に、急いでドアをノックした。今日はカーテンを届けることが目的で、山口明夜がいてもいなくても、狼狽《うろた》えない覚悟はできていた。  中から山口明夜の声が聞こえ、ぼくが名前を言い、ドアが、外側に開かれた。顔を出した山口明夜の目には、期待したほどの感動はなく、表情のない視線が漠然とぼくの顔を撫でただけだった。ぼくは気づかれないように唾を飲み、足元の沓脱に男物の靴を探してみた。あるのは山口明夜のサンダルと、ベージュ色のショートブーツだけだった。 「偶然前を通ったら、窓から、君の姿が見えた」 「窓は通りに面していないわ」 「となりの部屋だったかな。どっちにしても君がいたのは、すごい偶然だ」  山口明夜が形よく尖った鼻を、少し右に曲げ、肩をすくめて、苦笑しながら部屋の奥に引きさがった。歓迎するとも言わないし、帰れとも言わなかった。出かける気配はないから、よかったら入れ、という程度の意味らしかった。ぼくはドアを閉めてスニーカーを脱ぎ、一昨日とまるで同じ生活感のない部屋に、咳払いをしてあがり込んだ。こんなふうに押しかけることがルール違反であることぐらい、ぼくにもちゃんと分かっていた。  山口明夜がベッドの端に腰をのせ、ついていたテレビのスイッチを切って、肩の力を抜くように、ほっと欠伸をした。ストレートジーンズに丸首のコットンセーターで、化粧もピアスもなく、知らなければ性別の判定が難しい横顔だった。 「今日は、マラソンの練習、しないの」と、紙袋を下に置きながら、テーブルの前に居心地悪く座って、ぼくが言った。 「この前は試しに走っただけ」と、見おろすように視線を向けて、山口明夜が言った。「コーヒー、飲む?」 「うん」 「インスタントだけど」 「いいさ」 「テレビは?」 「観たくない」  山口明夜が足を振って腰をあげ、肉芽の浮いた素足を滑らすように、うなずきながら台所に立っていった。冷蔵庫も調理器具も見当たらないが、ガス台にはアルミの薬罐がのっているから、気が向けば湯ぐらいは沸かすのだろう。  ぼくは座ったまま、紙袋の封を開き、窓の高さを確認しながら、買ってきたギンガムチェックのカーテンを取り出してみた。長さを百六十センチと判断したのは、やはり正解で、台所との仕切りも予想したとおり、百八十センチだった。 「ビデオ屋に行ったけど、晴川くんが言った映画はなかった」と、流しの前から部屋のほうに首を伸ばして、山口明夜が言った。 「なんだっけ」 「椿三十郎」 「どうでもいいさ。古い映画だし、観ても面白くはない」 「それ、なに?」 「カーテン」 「女の子みたいな色」 「女の子だもの。君が自分で、どう思ってるかは知らないけど」  山口明夜が二、三歩歩いて、部屋の境目で立ち止まり、柱に手をかけながら、眉の線を山形に歪めてみせた。 「わたしの部屋に?」 「ぼくの部屋には似合わない」 「でも、どうして」 「夢の中にこの部屋が出てきた。部屋の神様がカーテンを取り替えてくれと、ぼくに頼んでいった」  大きく息を吸い込んで、黙って息を吐き出し、指先で前髪を払いながら、山口明夜が口の端に小さい皺を刻ませた。目の表情は困惑しているようでもあり、怒っているようでもあり、諦めているようでもあった。ぼくは仕切り用の花柄カーテンを外し、新しいカーテンを掛けて、山口明夜の鼻先でぴたりとそのカーテンを閉めてやった。 「ちょっと、ベッドに、あがらせてもらう」  返事はなく、ぼくはベッドにあがって窓のカーテンを付け替え、外した古いカーテンを、丸めて部屋の隅に放り出した。カーテンぐらいで世界が変わるはずもないが、窓からの光は和らかくなり、冷淡だった部屋の空気にも遠慮がちな華やかさが広がってきた。女の子の部屋が女の子の部屋らしくなることは、悪いことではなかった。  間仕切りのカーテンが開き、琺瑯のカップを持った山口明夜が、息を止めるような顔で部屋に戻ってきた。表情が固いのは突然色彩が変った自分の部屋に、戸惑いでも感じているのだろう。 「晴川くん、やっぱり変わってる」と、カップをテーブルに置き、顎の先を不愛想に窓の方向に向けて、山口明夜が言った。 「カーテンを替えると縁起がいいんだ」 「ふーん」 「早くいいアルバイトが、見つかるといい」  内心ではアルバイトのことではなく、清算できていないらしい山口明夜の過去のことを考えていたが、口に出すわけにはいかず、『走人』を調べた事実も、言うわけにはいかなかった。 「柄もサイズも、合っている」 「カーテンだけ目立つわ」 「すぐ慣れるさ。カーペットとベッドカバーを工夫すれば、いい部星になる」 「面倒臭いな」 「この部屋、君、どれぐらい住んでる?」 「二年」と、ほとんど口を動かさずに、山口明夜が答えた。 「長いんだな」 「そうかしら」 「越してきたばかりかと、思っていた」  二年もこの部屋に住んでいて、ポスターも鉢植えも人形もなく、畳には傷も埃も浮いていない。簡素であることは好ましくても、それは山口明夜が潔癖であることとは、別な理由だろう。ネイチャー化粧品の陸上部をやめて以来、たった一人、友達もつくらず、映画も観ず、山口明夜はこの部屋とアルバイト先だけを往復して暮らしてきたのだろうか。『オリンピックにも出られた』というほどの才能をもちながら、なにを好んで、こんな生活を選んだのか。  山口明夜がテーブルを遠く離れて座り、もう部屋の話題には触れず、脚を投げ出して、膝の上でアルバイト情報誌をめくり始めた。礼の言葉までは期待しなかったが、カーテンに対する感想ぐらいは聞いてみたかった。  ぼくはくすぶる疑問をコーヒーで胃の下に押し込み、殺風景な部屋を見まわして、ひっそりと欠伸をした。眠いわけではなく、居心地が悪いわけではなく、それでも放っておくと手塚修司という人の名前が、つい口から出そうになる。 「なん年か前は、その雑誌、電話帳ぐらいの厚さだった」と、日の陰りはじめた窓を眺めながら、ぼくが言った。 「そのころのことは知らない」 「面白そうなアルバイト、ある?」 「スナックとか、コンビニのレジとか……」 「教材のセールスとか、ビデオの配達とかな。また、始めなくちゃ」  山口明夜は口を結んだだけで、返事をせず、ジーパンの裾から出た素足の足首を、くるっと回してみせた。骨ばっていて、指が長くて肉芽の厚い山口明夜の素足は、寒そうでもあり、感動的でもあった。肩も胸も頼りないほど華奢なのに、足の皮膚だけは肥厚していて、踝《くるぶし》の下には痣《あざ》のような黒ずみも見える。雑誌をめくる細い指との対照が、悲しいほどぼくを困らせる。 「君、勤めは、したことないんだ」 「ちょっとだけ、あるわ」と、顔をあげずに、山口明夜が答えた。 「運動関係?」 「普通の事務。すぐにやめた」 「君が事務員というのは、似合わなくて、おかしい」 「子供のころは船乗りになりたかった。女の子は船乗りになれないと言われて、悲しかった」  日焼けの残る山口明夜の首筋が、少し赤くなり、顎の先端にできた小さいにきびも、気のせいか色を濃くしたようだった。ページをめくる指の動きが、ぎこちなく、作ったように早くなる。 「他人《ひと》と会わなくていい仕事って、少ないわね」 「ペットショップがあった」 「お客が面倒。犬や猫は口をきかないけど」 「割り切ればいいさ、金のためだって」  山口明夜の平らな額に、強い皺が浮きあがり、輪郭のはっきりした二重目蓋が、非難の表情でぼくの顔を見あげてきた。 「晴川くんは、お金のために割り切れるの」 「アルバイトだからな」 「アルバイトでも、お金のために働くのはいやだわ」 「アルバイトは金のためにやる」 「でもお金のために生きるのって、そういうのは、いや」 「大げさだな」 「いやなものはいやなの」 「そんなことだから……」  言葉を出しかけ、山口明夜の驚くほど頑固な視線に、一瞬、ぼくは息を飲み込んだ。ぼくにカーテンを買わせた衝動が、山口明夜を被っている不透明な拒絶感が、我慢していたぼくの苛立ちを、また無自覚によみがえらせる。 「そんなことだから、なに?」 「忘れた」 「そんなことだから、カーテンも買えない? お金がなくて、友達もいなくて、映画のことも知らないという意味?」 「普通でいいと思っただけ。普通に生きることは、そんなに、悪いことじゃない」 「晴川くんは普通なの。わたしを非難する資格がある?」 「自分のことは分からない。でも他人のすることはよく見える。ただ、それだけのこと」 「わたしは自分のことを考えるだけで精一杯。他人《ひと》のことなんか、見る気にもならないわ」  山口明夜が肩に力を入れ、セーターの胸に顎をうずめて、潜っていた怒りを吐き出すように、長く息をついた。 「わたしね、カーテンは嬉しいけど……」と、雑誌をテーブルの下に放り、膝を抱えながら、山口明夜が言った。「一方的にこういうことをされるの、好きではないの。善意でも愛情でも、一方的に押しつけられるのは、嫌いなの」  アパートの裏をトラックのバックアラームが通りすぎ、その合成音に紛れて、小学校のほうから子供の甲高い声が聞こえてくる。山口明夜は前髪を一筋額にかけ、目の光を強くして、じっと壁を睨みつづける。ぼくの混乱や苛立ちは情けないほどの速度で分解し、後悔の中に、苦い味で萎縮しはじめる。かね[#「かね」に傍点]という言葉に対する山口明夜の極端な反応を、反応の理由を、当然ぼくは、理解するべきだった。  日が陰ってきて、部屋の中に薄闇が広がり、それでも山口明夜は姿勢を変えず、膝を抱えたまま、頑なに黙りつづけていた。ぼくは思考を放棄し、空になった琺瑯のカップを、意味もなく弄んでいた。カーテンを買ったのも衝動で、部屋を訪ねたのも衝動で、そのすべてを否定されたぼくは、どういう名目でも、もうこの部屋にいられない。  ぼくは突然高鳴った心臓を、ジャケットの裏側に抑え込み、鼓動のリズムに追われて、畳の上に膝を立てた。偶然通りがかっただけの人間は、用がなければ、立ち去るしか仕方ない。 「コーヒー、ありがとう」 「うん」 「暗くなってきた。電気、つけたほうがいい」 「そうね」 「喧嘩をしに来たわけでは、ないんだ」 「分かってる」 「映画のことだけど……」 「うん?」 「どうせなら、小津安二郎のほうがいい。黒澤明よりは、ずっといい」  山口明夜は腰をあげず、ぼくは暗い部屋から暗い沓脱に出て、スニーカーの紐をしめ、ドアを開けて、外に出た。踊り場も外階段も小学校の庭も、半透明の闇に覆われ、路地を行商の八百屋がリヤカーを引いていく。新聞配達のバイクが通り、アタッシェケースをさげた男が駅の方向に急いでいく。ぼくは心臓の鼓動を鎮めながら、岩淵町の交差点まで歩き、信号を渡って、歩道に明るく口を開けている地下鉄の駅に、ゆっくりおりていった。方向も浦和とは反対で、駒込で行き止まりになるというが、こんな気分の日でなければ、そんな電車、だれが乗る気になるものか。 [#改ページ]     6  壁紙が天井との境目で、一ヵ所めくれて見える。グリーンの濃淡にストライプの入った壁紙は、ぼくが大学をやめた記念に自分で張ったものだ。二年近くたった今でも、まだ飽きはきていない。夏から住みついている小さい蜘蛛が壁を横切ってカレンダーの下にもぐっていく。蜘蛛も雀も起きているし、ぼくにも起き出す義務があることは分かっている。意識の内と外を、雑誌にのっていた山口明夜の写真が澱みなく出入りする。競技場で山口明夜の走りに声援を送った記憶が、奇妙な現実感で錯覚を熱くする。明るい夜と書いてアキヨと読むことの、どこがおかしいのだろうと、朦朧とした頭でぼくは一人ごとを言う。  寝返りをうって、枕と布団の隙間から、ぼくは自分の部屋を確認してみる。チノパンツとジャケットが脱ぎ散らかしてある以外、変わった風景は見えてこない。高校時代から使っている木の机と、高さ調節のきく灰色の椅子。キャビネットにはネガをファイルしたプラスチックのケースが並び、下の段には写真の専門書が横積みに放り込んである。机の上にも動植物の図鑑類が並んでいるが、大学で専攻した経済関係の本は廃品回収に供出してしまった。これだけカメラをつづけているのに、部屋に自分の作品を飾ったことはない。壁に山口明夜の写真を掛けるとしても、その理由を自分の中でどう位置づければいいのか、やはりぼくには分からなかった。  いつまでたっても頭は愚痴を言ってるし、仕方なく大いなる決心をして、ぼくはごろりとベッドから転がり落ちた。  トイレを済ませて台所から居間をのぞくと、昨日まで卓袱台の出ていた場所が電気|火燵《こたつ》に代わっていて、セーター姿のお袋がテレビをつけて座椅子に寄りかかっていた。  お袋が顔をあげなかったので、ぼくも声をかけず、台所に戻って、きれいに片付いている流しでコーヒーをセットした。また天気がつづくらしく、台所の窓には裏の楓がさらさらと呑気な影を映している。遅い朝のコーヒーの香りや、居間の電気火燵や窓に揺れる葉影や、風景だけならこんなにも平和だと、ぼくはだれにでも自慢してやれる。  コーヒーが落ちきるまで台所の椅子で待ってから、モーニングカップに移し、それを持って、ぼくはゆっくりと居間に入っていった。お袋が観ているのは再放送の時代劇で、なにが面白いのか、お気に入りは昔から時代劇とミステリーの二時間番組だった。 「へーえ。もう、火燵にしたんだ」と、朝寝の罪もあることだし、火燵に浅く足を入れて、無難に、ぼくが言った。 「朝晩は冷え込むの。朝も夜も遅い人には関係ないでしょうけどね」  お袋が鼻水をすするように、口の端を曲げ、肩でも凝るのか、首の筋を伸ばしながら頭を二度ほど右にかたむけた。一人でこの家を仕切っていれば肩ぐらいは凝る。放埒《ほうらつ》な娘や息子に対して、嫌味の一つも言ってみたくなるだろう。これで小谷さんの件がばれでもしたら、晴川の家族は首を揃えて地獄に行くことになる。 「悪いけどシロウ、今日も喜衣の病院に行ってくれないかしらね」と、火燵の菓子鉢から煎餅をつまんで、テレビに目をやったまま、お袋が言った。 「母さん。それは、ないよ」 「下着の着がえがどうとか、化粧品がどうとか、また面倒なことを言ってきたの」 「忘れていた」 「ドクダミエキス入りのクレンジングクリームでしょう。入院したときぐらい、おとなしく寝ていられないものかしら」 「姉さんがおとなしく寝るようになったら、もっと面倒さ」 「冗談はいいの。ねえ、とにかく行ってちょうだいよ」 「今日は忙しいんだ」 「シロウに忙しいことがあるの」 「アルバイトだって、探す必要があるしさ」 「弱ったわねえ。母さん、病院って嫌いなのよ。お医者や看護婦にも気を使うし、喜衣の我儘につき合うのも気が重いの」  お袋がセーターの袖をおろし、人差し指で右のこめかみを押さえながら、さりげなくぼくの顔に流し目をくれた。病院の件は諦めたらしいが、まだなにか思惑があるようで、急にぼくは、いやな予感に襲われた。 「ねえシロウ、この前あなた、彼女に会ったと言ったわねえ」 「彼女……」 「手紙に書いてあった、あの小谷さんという人」  予感は当たって、這いあがってきた寒気に、ぼくはひっそりと身震いした。 「彼女、どういう感じの人だったの」 「真面目そうな、普通の、女の人さ」 「お父さんとは本当に関係ないのよね」 「小谷さんは、そう言った」 「あなたの印象ではどうなのよ。雰囲気におかしいところは無かったわけ」 「難しいことは、ぼくには、分からない」  短く息をつき、火燵の端に肘をかけて、言葉を探すように、お袋が小さく眉を歪めてみせた。 「気にしても仕方ないけど、へんな電話がかかってきたの」 「へんな、電話?」 「悪戯であることは分かってる。だけどこういうふうにつづくと気分が悪いでしょう。冗談で済ませるのも腹が立つわ」 「具体的には、どういう電話さ」 「お父さんと別れろって」 「電話の人が?」 「それがわたしのためにもなるって」 「大きなお世話だ」 「そうよねえ。でも手紙のこともあるじゃない。電話までかけてこられると、疑いたくもなるわ」  親父との『共同戦線』に同意した覚えもなかったが、だからってこの場で、事実を打ち明ける覚悟が、ぼくにつくはずもない。 「電話をかけてきた人は、名前を言ったの」と、モーニングカップを掌に包み、お袋には見えない角度に顔を隠して、ぼくが言った。 「自分の言いたいことだけ言って、切ってしまったわ」 「男?」 「女。低い声でね、念を押すような喋り方。だからシロウ、小谷さんという人は、どういう感じだったの」 「明るい声で、上品な喋り方だった」 「それじゃやっぱり、悪戯なのかしらねえ。悪戯にしては質《たち》が悪すぎるけど」  声で思い出すほど、ぼくだって、小谷さんに強い印象は持っていない。それでもお袋に言った『明るい声で上品な喋り方』というのは、完璧にでたらめだった。どちらかといえば低い声で、言葉を区切りながら、相手の表情を確かめるように話す人ではなかったか。 「電話のことは、父さんに、話したの」と、お袋の顔を見る気にはならず、空のカップを弄びながら、ぼくが言った。 「手紙のときと同じで、だれかの悪戯だろうと言うだけ」 「心当たりは、ないって?」 「調べてみるとは言ったけど……」  お袋がまた煎餅をつまんで、口に押し込み、頬杖をつきながら、ぱりっと気楽な音をたてた。髪の分け際に白髪が目立つのは、姉貴や親父の騒動でヘアダイを忘れているせいだろう。 「あれかしらねえ。今度のこと、やっぱり仕事の関係かしらねえ」 「父さんがそう言うなら、そうなんだろうな」 「来年は取締役が内定しているらしいのよ。派閥とか駆け引きとか、いろいろあるのかしら」  取締役ということは、重役ということではないか。親父が家で仕事の話をする習慣はないにしても、共同戦線を提案したとき、なぜぼくに言わなかったのだ。取締役が内定して、たんに小谷さんの存在が不都合になったという、それだけのことなのか。それとも小谷さんの側に、恋愛感情以外の、別な思惑でもあるのだろうか。 「取締役の話なんか、聞いていなかった」 「シロウ、父さんの仕事になんか、興味なかったでしょうに」 「場合が場合だし、さ」 「あの人も頑張ってはいるのよ」と、テレビのチャンネルをワイドショーに切りかえ、座椅子の背にもたれて、お袋が言った。「片山さんは本社の重役になっているし、内心は焦っていたんでしょうね」 「片山さんて?」 「同期だった人」 「同期で、もっと出世した人だって、いるだろう」 「いろいろあるのよ」 「いろいろって」 「昔のこと。シロウには関係ないの。だからね、お父さんが浮気をしてるなんて、ありえないことなのよ」  片山という本社の重役と、親父の取締役内定と浮気の否定と、お袋の中で、どんな関連を持っているのか。お袋だって三十年も前から頬のたるんだおばさんだったわけではないし、若いころは新宿のディスコにも通ったという。親父とは社内結婚だったから、片山という人とも、そのへんで関係があるのかも知れない。 「どっちにしても、騒がないほうがいいさ」と、自分の語調を気づかいながら、菓子鉢に手を伸ばして、ぼくが言った。  お袋が疲れたように目を閉じ、背伸びをして、また小さく欠伸をした。左手の薬指にはプラチナの指輪が光っているが、親父の指にも結婚指輪が嵌まっていたか、記憶は曖昧だった。 「姉さんの病院、やっぱり、行こうかな」 「もういいわよ。カルチャーの前に母さんが回ってみる。シロウは冷凍庫のピザでも温めて、適当に食事をしてちょうだい。出かけるときは戸締まりと火の始末、忘れないでね」  返事をしようと思ったが、その前にお袋が立ちあがり、エプロンの位置を直しながら、茶色のソックスを引きずって台所へ歩いていった。輪郭はぼやけていても、親父の心配は、粛々と現実になりつつある。たった一個の結婚指輪を当てにしているお袋に対して、『遺伝子の命令には逆らえない』と言い切るだけで、本当に問題が片付くものだろうか。それにぼくにしても、これ以上の演技を強いられたら、人格なんか簡単に破綻してしまう。  ぼくが茫然とテレビを観ている間に、お袋が玄関から出て行き、それから三十分ほど、やはりぼくは術《すべ》もなくテレビを観つづけていた。番組は視聴者参加のバラエティーショーに変わっていて、知らないタレントが面白くもないギャグを、懲りもせずに送り出す。ぼくの頭には小谷さんの首をかしげた横顔や、山口明夜の日焼けした首筋が騙し絵のように交錯している。親父の問題に意識を集中するべきなのに、山口明夜のイメージがテレビの画面にまで顔を出す。散歩日和ではあるが、カメラを持って家を出れば、どうせ赤羽の河川敷をうろつくに決まっているのだ。  ぼくはテレビを消し、火燵のスイッチも切って、居間のガラス戸を開けてから台所のオーブンに冷凍のピザを放り込んだ。今日は薔薇と紫陽花の剪定をして、それから梅の木に肥料をやって、夕方になったら姉貴の病院に行ってみる。親父のトラブルは、どう考えても、ぼくの手に負える問題ではなさそうだった。  ピザが焼け、コーヒーもいれ直して、ぼくはカップと皿を持って居間の廊下に腰をおろした。ドウダンの葉が赤みを増し、松の枝に止まったオナガ鳥が番《つが》いでこちらを見物している。競馬場の方向からは風に乗って低いどよめきが聞こえてくる。追われるような焦燥感はあっても、日の当たる庭を眺めながらぼんやりしている自分が、決して嫌いではなかった。  コーヒーを飲み、ピザを食べ、雲の間に日射しの位置を確認したとき、塀に止まっていた雀の群れが、羽音をたてながら一斉に飛び立った。門の向こう側に紺色のトレンチコートがのぞき、鉄扉が静かに開いて、影をつくりながら痩せた男の人が入ってきた。髪は短く、日に焼けていて、ネクタイのないワイシャツにグレーの香えズボンを穿き、そしてコートの肩は、パッドでも入っているように、少し右あがりに突き出していた。  男の人が遠くからぼくの顔を確かめ、日射しに目を細めるように、門から直接庭を横切ってきた。ぼくはわけが分からず、モーニングカップを持ったまま、唖然と廊下に座っていた。 「君が晴川くんか。いく日か前、荒川の土手で会っていると思うが……」  ぼくは息を飲むついでに、黙ってうなずき、カップと皿を脇に置いて、震えてきた指先を慌てて膝の間に挟み込んだ。自分が緊張する理由も、手塚修司という人が訪ねてきた理由も、まるで見当はつかなかった。 「僕の名前は知っているね」と、コートのポケットに両手を入れながら、部屋の中に鋭く目をやって、手塚さんが言った。「君に話があるんだが、出られるかな」 「ぼく一人ですから……」と、廊下を居間の敷居までさがって、ぼくが答えた。「ここで、話してください」  手塚さんが部屋と庭を見くらべ、目尻に太い皺を刻みながら、口の中で返事をした。痩せているわりに胸が厚く、首筋も顔も、皮膚の上から硬い油紙を貼りつけたようだった。 「座りませんか」 「このままでいい。浦和には初めて来たが、静かな町だね」 「ぼくのことは……」 「『走人』の編集長から連絡があった。住所も彼に教えてもらった」  庭の西側に目を細め、顎をしゃくるように、手塚さんが背中を大きくのけ反らせた。目つきも鋭いし、声もかすれているが、見かけほど怖い人でもなさそうだった。それにしても『スポーツトピックス社』の人は、手塚さんとそんな間柄だと、一言も言わなかったではないか。 「松の木のとなりに咲いているのは、椿かね」 「山茶花《さざんか》です」 「区別がつかないな」 「椿の一種ですけど、花弁の数が違います」 「花にも木にも無縁に生きてきた。これからもたぶん、縁はないだろうが……」 「コーヒーをいれます」 「いや。気をつかわないでくれ。話が済めば、すぐに帰る」  ぼくの顔に視線を戻し、そばの庭石に寄りかかって、手塚さんが掌で右の頬を強くこすりあげた。眉が濃くて、顎が張っていて、知らなければ三十にも五十にも見える顔だった。 「君の柿という字に郎と書く名前は、どう読むんだ」 「シロウです」 「シロウか。なるほど……晴川くん、突然で申しわけないが、山口明夜には係わらないでくれないか」  どこかに予感はあったが、あまりの端的さに、後悔する間もなく、ぎしりと軋んで、目の前の風景が一瞬に色をなくしていった。輪郭を失った意識の中に、山口明夜の冷淡な視線が、強烈によみがえる。 「言っている意味が、分かりません」と、流れ出す自我を無理やり塞き止め、日射しの中に足先をおろして、ぼくが言った。「彼女には、なにも、係わっていません」 「係わりたいとは思っている」 「三度、会っただけです」 「三度会っただけの、興味のない相手の過去を、君は探偵のように調べるのかね」  うすい目蓋の下から、動揺のない目でぼくの顔を見つめ、耳の下から顎の先まで、手塚さんが緊張した影を走らせた。 「君が悪いとは言ってないんだ。山口明夜に興味を持ったことも仕方ない。ただ今後は、会うことはもちろん、電話も手紙も、一切の連絡を遠慮してほしい」 「言っている意味が……」 「なん度言っても意味は同じだ。もう彼女には係わらないでほしい」 「彼女の、本人の、意思ですか」 「僕の意思に決まっている。彼女には知らせてない。彼女に知らせる必要があるとも思わない」 「突然言われても、因ります」 「二ヵ月前に彼女を見つけ出した。それから毎日説得した。最近になって、やっと走る気を起こしてくれた。好きだとか嫌いだとか、つまらないことで彼女を混乱させないでほしい」  空になっていることは承知で、ぼくはモーニングカップを取りあげ、頬と唇と前歯に、強く押しつけた。葉音も競馬場のどよめきも鳥の声も、みんな聞こえているはずなのに、耳に入るのは、手塚さんの低いかすれ声だけだった。 「映画も観たい、旅行もしたい、酒も飲みたい……彼女は、そう言いました」 「そんなことはいつでも出来るよ」 「いつですか? 明日ですか、来週ですか」 「現役を引退したら、いつでも出来る」 「十年も二十年も先でしょう。それまで彼女に、毎日毎日、ただ走るだけの生活をさせるんですか」 「それが山口明夜の宿命だ」 「宿命は、あなたです」と、急に透明感を増した視界に、しっかりと手塚さんの顔を閉じ込めて、ぼくが言った。「走りたければ、彼女は自分で決めます」 「僕は君を説得しに来たわけではない。頼みに来たわけでもない」 「それなら彼女も、自由にさせるべきです。走るか、走らないか。ぼくとつき合うか、つき合わないか。そんなことはみんな、彼女の自由です」  手塚さんが眉の形を崩し、柚子《ゆず》の葉先をつまみながら、視線をどこか、空の遠いほうにふり向けた。 「世の中には、自分の自由にならない才能を持った人間が、たまにはいるもんだ。才能のない人間には理解できないことだ」  口の中で舌打ちをし、自嘲ぎみに頬を歪めて、目の端でぼくをのぞきながら、手塚さんがコートの肩をそびやかした。 「僕の娘はピアノを習っていてね。教師は才能を保証した。母親もピアニストにしようと思った。それで、五歳の子供を椅子に縛《しば》りつけた。トイレと食事のとき以外は椅子に縛りつけて、一日中ピアノの練習をさせた。娘はいやがった。泣いたりわめいたり、見ている僕も辛かった。なぜそこまでするのか、母親のエゴではないのか。ピアニストになんかなれなくていい。一流にもならなくていい。なぜ普通の子供のように育ててはいけないのか……しかし、家内は僕の意見に耳を貸さなかった。理由は『娘に才能があるから』ということだった。才能は娘のものでも、母親のものでも、僕のものでもない。才能はその才能自身のものだという。当時、僕には、家内の言うことが理解できなかった」  郵便配達のバイクが通って、空気がたわみ、戻ってきた雀が塀に並んで、乾いた声でさえずりを再開した。敷石にできた手塚さんの影が、揺れながら黒竹《くろちく》の根元まで伸びていく。 「中学のときに陸上を始めて……」と、足の位置を変えながら、苛立ったように腕を組んで、手塚さんが言った。「現役時代も、コーチになってからも、山口明夜ほど素質のある選手には、一度も出会わなかった。僕に使命があるとしたら、彼女の才能を百パーセント引き出すことだ」 「それは……」 「君の意見は訊いていないよ」 「才能を引き出しても、一秒か二秒、他の人より速く走れるだけです」 「意味がないということか」 「意味が、あるんですか」 「世界一速いランナーより、彼女は一秒でも十秒でも、速く走れる可能性がある。意味があってもなくても、可能性を殺すことは罪になる」 「ぼくには、あなたのエゴにしか思えません」 「君に判断をしろとは言ってない。山口明夜に係わるな、と警告しているだけだ」 「彼女自身の気持ちは……」 「君にも山口明夜にも、気持ちは関係ない。そういう問題とは、次元がちがう」 「彼女はあなたの道具ではありません」 「彼女の才能も、彼女が勝手に使える彼女の道具ではない。映画を観たり、君とデートしたり酒を飲んだり、そんな無駄使いが許される道具ではないんだ」  視界は奇妙に透明で、ぼく自身も奇妙に冷静で、言葉に意味や感情があることが、どうしても信じられなかった。 「あなたのような人が、世の中にいるとは、信じられない」 「山口明夜ほどの才能がこの世にあるとは、僕にも信じられなかったよ」  庭石から腰を離し、コートの裾を払ってから、門の方向に視線を向けて、手塚さんがむっつりと会釈をした。目が眩しそうに見えるのは日射しのせいではなく、目尻に刻まれたままの、太い皺のせいだった。 「とにかく、君には関係のない世界なんだ」と、強引に背中をまわし、門につづく飛び石の前まで歩いて、手塚さんが言った。「理解なんかしなくていい。僕のほうには覚悟ができている」 「なんの、覚悟ですか」 「山口明夜を走らせるためなら、君の一人ぐらいはいつでも殺せる……そういう覚悟さ」  笑ったのか、照れたのか、横顔に深い影をつくり、肩を丸めて、手塚さんが静かに庭を横切っていった。 「手塚さん……」と、鉄の扉に手をかけた手塚さんに、庭までおりていって、ぼくが言った。「金のためですか」 「なんのことだ」 「彼女を利用して、また金を稼ぐつもりですか」  扉に手をかけたまま、ななめにふり返って、逆光の中に表情を入れながら、ふっと、手塚さんが笑った。 「娘はドイツに留学した。家内とも離婚した。もう僕に、金はいらないんだよ」  扉が開き、紺のトレンチコートが滑り出て、それから金属の触れ合う音が、三秒ほど遅れてやってきた。手塚さんの姿もなく、足音もなく、ぼくは日の射し込む庭に立ったまま、楓に飛ぶ羽虫を茫然と眺めていた。松の木にはまだオナガ鳥が止まっていて、手塚さんに会ったことも、話をしたことも、欠伸をしている間の、一瞬の幻覚のようだった。 「薔薇と紫陽花の剪定をして、梅の木に肥料をやって、それから、それから……」  居間で、いつの間にか電話が鳴りはじめている。そのことに気づいたのは、一人ごとを言い終えてから、長い時間がたったあとだった。     *  街路樹も舗道も病院の敷地も、明るさを残しながら、気配は夜になりきっている。クルマまわしにはタクシーと自家用車が列をつくり、空の車椅子を看護婦が忙しなく押していく。人が溢れているくせに、待合室に話し声は聞こえない。掃除婦が寡黙にモップを動かし、入院患者が飄々とパジャマのまま歩き回る。消毒液と埃の臭気が、生暖かい廊下に重く沈み込む。  ドアを開けると、姉貴はスライド式のテーブルをベッドに引きあげ、肩にガウンを羽織ってひっそり夕飯を食べていた。メニューは大根の煮つけにほうれん草の和《あ》え物。鮭の切り身と味噌汁と丼に盛った一膳飯だった。人騒がせの償いとして、これぐらいの罰は仕方のないところだ。 「こんな時間に夕飯を食べさせるなんて、患者のことをなんだと思ってるのかしらねえ」 「ホテルではないし、我慢するさ」と、空いているベッドに腰をおろして、ぼくが言った。 「テレビも入れてくれない。それで消灯が十時よ。こんなところに入院してたら、病気になってしまうわ」  テーブルを横にずらして、ベッドの上に座り直し、缶のウーロン茶に口をつけながら、姉貴が刺《とげ》のある目でぼくの顔を見おろしてきた。 「昨夜、高橋が飛んで来たわよ。どうしてあんた、余計なことをしたのよ」 「ちょっと、サービス」 「知らせるなと念を押したじゃない。当て付けがましい女だと思われて、わたしの立場がなくなるでしょう。あんたなんか生まれたとき、噛み殺しておけばよかったわ」  ぼくだって高橋さんに、結論が出てから会いに来るように、と念を押したはずだった。予感はあったが、そんな忠告に従うほど、純情な人ではなかったのだ。常識が通用するような相手なら、最初から姉貴なんかと面倒な関係にはならなかった。 「高橋さん、なんだって?」と、窓の前まで歩いてから、ガラスに肩で寄りかかり、夜景に変わっていく遠くの空を眺めながら、ぼくが言った。 「飛んで来ただけ。自殺するなら自分に断ってくれって。いちいち他人に断って、薬なんか飲めないわよねえ」 「結論を出すなら早いほうがいい」 「問題はあいつの誠意よ。誠意を示してくれれば、いつだって結論ぐらい出してやるわ」 「高橋さんの誠意、ね」 「だからシロウは口を出さないで。大人には立場があるの。社会的な影響だってあるのよ。こっちはあんたみたいに、ままごとで恋愛してるわけじゃないんだから」  暗くなった病院の敷地から、ライトをつけたクルマが澱みなく流れ出していく。入ってくるクルマは少ないから、外来の受付けは終わっているのだろう。門の外側の道路に、昼間は気づかなかったスナックと鮨屋が、明るい電気看板を出している。 「姉さん。ぼくのことは、言えないさ」と、窓ガラスに映る姉貴の顔を眺めながら、サッシの埃に息を吹きつけて、ぼくが言った。 「シロウが余計なことをするから話がこじれるんでしょう。高橋との関係がこれ以上面倒になったら、あんたの責任ですからね」 「子供のことまで言って、勝手だよな」 「だれの子供?」 「姉さんの子供」 「わたしに子供なんかいないわよ。姉弟のくせに、なにを言ってるの」 「高橋さんの子供をおろしたって、この前、言ったじゃないか」 「わたしが?」 「ロックンロードでさ。自分はおろしたのに、高橋さんには双子が生まれて、だから許せないって」 「そうだったかしら」 「勝手にストーリーを作るの、やめてくれないかな。姉さんみたいに、ロマンチストじゃないんだ」 「酔っぱらって口走ったことまで、信じるほうが悪いのよ。もしわたしが言ったとしても、それはそういう成り行きだったの。シロウは基本的に人生勉強が足りないのよ」  姉貴を相手にしていると、どこかで、いつの間にか論理が混乱してくる。 「そんなことは、いいけどさ」と、窓枠に寄りかかったまま、なんとなくため息をついて、ぼくが言った。「今日、お袋が来たとき、なにか言ってなかった?」 「なにかって」 「眠れないとか、ヒステリー気味だとか」 「あの人はいつもヒステリー気味じゃない。いやよねえ、更年期を過ぎた女って」 「変わった様子は?」 「荷物を置いていっただけ。どうしたのよ。あんたまた、母さんを困らせるようなことでも仕出かしたの」 「ぼくのことではないんだ」 「シロウ以外にトラブルを起こすような人、うちには居ないでしょう」  反論しようかとも思ったが、言葉も気力も、なにも湧いてこなかった。 「父さんが、ちょっと、ね」 「親父がなによ」 「浮気。お袋にばれかかっていて、今、非常に、やばい」  姉貴が顎をのけ反らせ、切れ長の目を見開いて、一つに束ねたワンレングスの髪を、さらりと振り払った。 「冗談でしょう。親父になんの権利があって、浮気なんかするわけよ」 「スナックで飲んだときは、浮気をしてると言った」 「あれは一般論よ。まともな男なら一人や二人、外に女ぐらいできるという意味」 「父さんも、まともな男であることを、証明したかったんだろうな」  姉貴の目が吊りあがり、ファンデーションで固めた白い鼻に、蛍光灯の光がいやな色に反射した。切れ長のわりに黒目の大きい目が、姉貴の人相を、かろうじて可憐な印象に保っている。 「シロウ、あんた、仕返しをしているわけ?」 「なんの話さ」 「わたしが遺書に名前を書いたから、厭がらせをしてるんでしょう」 「姉さんが思うほど、暇じゃない」 「どういう意味よ。親父が本当に浮気をしてるということ?」 「そのためにわざわざ、相談に来たんだ」  部屋の外に台車を押すような音が響き、遠い場所からのアナウンスや空調の乾いた音が、単調に伝わってくる。 「本当に、本当の話?」 「最初からそう言ってる」 「相手はだれなのよ」 「父さんの会社の人」 「名前は?」 「小谷紀代子」 「何歳《いくつ》ぐらいの……」 「姉さんと、同じぐらいかな」  姉貴の赤い上唇がめくれて、右の八重歯が剥き出されたが、もちろん、目は笑っていなかった。 「頭に来るわねえ。その女が親父を誘惑したんでしょう」 「そこまでは、知らない」 「だけどおかしいじゃない。シロウが知ってることを、どうしてわたしが知らないのよ」 「姉さんは、病院で、寝てた」 「だからって……」 「退院したら相談するつもりだった。でも事情が変わって、意見を聞きに来た」  仕方なく、ぼくは部屋の中に向き直り、窓枠に寄りかかって、無表情に蛍光灯を反射している姉貴の目と、正面から向かい合った。額にかかった姉貴の前髪が、眉の上で薄情そうな震え方をする。 「まさかシロウ、ただの浮気では済まないとか、そういうこと?」 「相手のほうが、ね」 「冗談じゃないわよ。その女、親父に家庭があることを承知なんでしょう。今さら面倒なことを言うなんて、失礼じゃない」 「よくあるケースさ」 「他人事《ひとごと》みたいに言わないで。相手も相手だけど、親父にも困ったもんだわ」  姉貴の黒いネグリジェと、ピンク色のガウンが、装飾のない病室になまめかしい違和感を漂わせる。枕元の赤い薔薇だけが賑やかで、憮然とした焦燥が居心地悪くぼくの背中を通りすぎていく。 「二人が本当に愛し合ってるなら、そういうことも、仕方ない」 「そういうことって?」 「父さんと母さんが、離婚すること」 「本気で言ってるの」 「気持ちの問題だから、仕方ないさ」 「馬鹿ねえ。気持ちの問題で片付くなら、わたしだって苦労しないわよ」  姉貴の視線が一瞬横に飛び、壁と天井を伝わって、しばらくためらってから、束ねたワンレングスと一緒に、ゆっくりとぼくの顔に戻ってきた。気のせいか向こう側の口元が、少しだけ引きつっているようだった。 「それで、具体的には、どういうことなのよ」と、ガウンを肩に引きあげながら、短く鼻を鳴らして、姉貴が言った。 「小谷さんという人が、父さんとの関係を、手紙でお袋に知らせてきた」 「素人のくせに、よくやるわ」 「手紙は匿名で、父さんもだれかの悪戯だと言っていた。お袋に頼まれて、ぼくが小谷さんに会いに行った。そのときは小谷さんも否定した。そうしたら昨日、またお袋に電話がかかってきた。名前は言わなかったけど、たぶん小谷さんだと思う」 「親父は、なんだって?」 「別れるつもりでは、いるらしい。でも時間がほしいから、ぼくに共同戦線を張れという」 「甘いわねえ。シロウじゃ無理なのに」 「ぼくだってそう思うさ」 「あんたに何ができるの。こういう大事な問題、なぜ最初から相談しなかったのよ」  姉貴が前髪を掻きあげながら、細かく首を振り、ウーロン茶の缶に口をつけて、ちっと舌打ちをした。 「言っておくけど、わたしはシロウほど甘くはないわよ。離婚なんてぜったいに認めてやらない。どんな女か知らないけど、勝手に家庭を破壊されたら、たまったもんじゃないわ」 「小谷さんが、一方的に悪いとは、思わないんだ」 「理屈はいらないの。シロウの言いたいことも分かってる。でもあんただって、そんな女に親父を取られたくないでしょう」 「まあ、そうだな」 「頼りない返事をしないでよ。親父が遊んだとか浮気をしたとか、それと離婚というのは問題が別なの。直接わたしたちの人生に関係してくるのよ」 「そうかな」 「下手をすれば財産だって持っていかれるわ」 「財産なんか、あったっけ」 「あんたねえ、あの家と土地、いくらすると思ってるの。親父の生命保険だってあるし、このままいけば二人で山分けじゃない」 「そこまでは考えなかった」 「とにかく理屈じゃないの。平和な生活をかき乱されるのがいやなの。シロウだって家がなくなったら、一人で生きていけないでしょう」 「そうかも知れないな」 「親父にはわたしが言い聞かせる。あんたはわたしが退院するまで、母さんを見張ってればいいの。あの人、つまらないことで大騒ぎするし、へんに思い詰めるところがあるんだから」  姉貴の不気味に光る目を見返し、うなずきながら、それでもぼくは、頭の中で状況を分析していた。専門の問題は専門家に任せる。それは道理なのだろうが、やはりいやな雰囲気は残っている。姉貴の『理屈ではない理屈』で押し切れる相手と、押し切れない相手がいるとしたら、小谷さんは、どちらの部類だろう。 「なんだか知らないけど、食欲がなくなったわ」と、ウーロン茶の缶をテーブルに置き、小さく背伸びをしながら、姉貴が言った。「シロウ、食器を片付けてくれない。エレベータの横に配膳室があるわ」 「ついでにぼくは、帰る。報告に来ただけだから」  姉貴の視線を受けたまま、サイドテーブルからプラスチックの盆を取りあげ、疲れた気分で、ぼくは横向きに退いた。髪が一つに束ねられている以外、姉貴の化粧は立派なもので、黒いネグリジェにピンク色のガウンというコスチュームも、こんな病室には失礼なほど決まっている。自殺未遂の病人が、なんの皮肉か、家族の中で一番気合いが入っている。 「姉さん、本当は、どうだったのさ」と、盆を胸の前で抱えたまま、白けた気分で、ぼくが言った。 「なんのこと?」 「睡眠薬」 「睡眠薬の、なに?」 「飲んでも死なないこと、本当は、知っていたんだろう」  姉貴がぼくに近いほうの目を、神経質に見開き、その視線を天井に這わせて、低く息をついた。なん度か呼吸をする間、口紅もファンデーションもアイシャドーも、整った顔に、影すらつくらなかった。 「シロウ、わたしの赤いワンピース、クリーニングに出てるのよね」 「ふーん」 「銭湯のとなりのクリーニング屋。茶箪笥の引き出しに預かり証があるから、出しておいて」 「それだけ?」 「それだけよ」 「そうか……それだけ、か」  色彩の乏しい病室に、ベッドの上の姉貴だけが、異様なほど鮮やかに見える。窓の向こうには貧弱な夜景がのぞき、空調の取り入れ口には埃が寒そうに揺れている。姉貴のことも、親父のこともお袋のことも、二十二年間つき合ってきて、要するにぼくには、なにも分かっていないのだ。それと同じ理屈で、相手にも、ぼくのことは、なにも分かっていない。 「ボーナスが出たら、シロウ、青山でおごってあげるわ」と、CDのヘッドホンを首にかけながら、気楽に髪を振って、姉貴が言った。 「今までの借金も、帳消しかな」 「そこまでは虫がよすぎる。あんたが出世したら倍返しの約束だもの」 「倍返し、か」 「とにかくね、母さんのことは頼んだわ。ああいう人が思い詰めると、あとが面倒なの……あんたは手を引きなさい。昔から神経が細いんだから、高橋のことも含めて、面倒からは遠ざかっていることよ」     *  星はちゃんと見えているのに、相変わらず空気は生暖かい。季節のプロセスもぎこちないし、このまま冬は来ないのかと、つい疑ってしまう。公孫樹や欅《けやき》は青いままで、街燈にはまだ夏の羽虫が飛び交っている。そういえば荒川の土手には、秋のバッタに混じって、モンシロ蝶まで飛んでいた。  上井草の駅から路地を二丁目に入り、『かすみ荘』の前まで来て、二階の北端を、ぼくは意外に冷静な気分で見あげていた。ドアからつづく台所の窓に明かりはなく、二〇四の郵便受けにもダイレクトメールらしい角封筒が納まっていた。それでもぼくは、外階段から二階にあがり、人気《ひとけ》のない部屋のドアを軽くノックした。応答はなく、諦めて階段をおり、道をまた駅の方向に戻りはじめた。前に来たときはあれほど緊張していたのに、今は再放送のドラマを観るような、奇妙な静けさにとり囲まれている。  駅に戻ったときには八時を過ぎていて、二本ほど電車を待ってみたが、小谷さんは姿を見せず、ぼくは駅前の食堂で夕飯を済ませることにした。今夜中に会えればいいし、会えなくてもそれまでのことだ。覚悟は決まっているから、気持ちに負担は感じなかった。家族の現状を維持しようという努力に、どれほどの意味があるのか、確信があるわけではなかった。それでも自覚的に足が上井草に向かったのは、親父やお袋に対する、遺伝子的な愛着なのだろう。  二十分で食事を済ませ、食堂で時間をつぶす気にもならず、駅に戻って、ぼくは改札の見える場所でまた小谷さんを待ちはじめた。途中で一度、電話帳にのっていた番号に電話を入れてみたが、留守にセットされた低い声の応答が返ってきただけだった。  九時をだいぶ過ぎ、ぼんやり立っていることにも飽きてきたとき、ホームに新宿方面からの電車が止まって、改札口に二十人ほどの乗客が吐き出されてきた。小谷さんは薄いベージュ色のスーツを堅苦しく着込み、黒いハンドバッグを肩にかけて、人混みをさけながら無表情に歩いてきた。視線が合っても表情を変えず、ぼくのほうが萎縮するほどの落ち着き方だった。 「待ったらしいわね。連絡をくれれば早く帰ってきたのに」 「どうせ、ぼくは、暇ですから」 「そういう言い方、わたしは嫌いなの。暇に任せて待っていられても、嬉しくはないわ」 「誠意は認めて下さい」 「あなたの誠意を認めると、いいことでもあるのかしら」 「ビールをおごります」 「安い誠意なのねえ。それぐらいの誠意なら、だれにでも示せるわ」  小谷さんが首をかしげて、皮肉っぽく唇を笑わせ、視線で誘うように、駅前を南側の路地に歩き出した。アパートとは別な方角だから、ついて来いという意味だろう。安くてもなんでも、とりあえず誠意だけは認めてくれたらしかった。どんな店に行くにせよ、そこの勘定は、必要経費として親父から徴収する必要がある。  小谷さんがぼくを連れていったのは、商店街の路地を深く入り込んだ、狭くて細長いスナックだった。薄暗い照明の中にオールデイズのジャズが流れ、バーボンとスコッチの瓶が棚の全面に、意識的な乱雑さで押し込まれていた。マスターも髪をオールバックにした中年の人だったが、場末のスナックという意味では『ロックンロード』と変わらない雰囲気だった。  客は勤め人ふうの男の人だけで、ぼくたちはカウンターの椅子に並んで座り、マスターがおしぼりを出してくるまで、気まずく黙り合っていた。近況を報告しあう間柄ではないし、天気を話題にするほど、ぼくに余裕があるわけでもなかった。 「水割りでいいでしょう。心配はいらないわ。フリーターの子におごらせるつもりはありませんから」  キープしてあるスコッチで、マスターが水割りを作り、それぞれのグラスを手にとって、一度だけ、小谷さんが無愛想に会釈をした。ぼくも酒なんか飲みたくはなかったが、素面で話を切り出すのも気が重かった。小谷さんにしても、気持ちは同じはずだった。 「遠回りをしていて、必要以上に、面倒になりました」と、グラスを手の中に置いたまま、背中にジャズを素通りさせて、ぼくが言った。 「本当は簡単なのよ。でもあまり簡単だと、ゲームにならないでしょう」 「小谷さんにとっては、今度のこと、ゲームですか」 「たとえ[#「たとえ」に傍点]で言っただけ。理屈は簡単でも駒を動かすのが難しいゲームもあるわ。だから迷ったり悩んだりするわけよね」  一般論としては、分かる気もするが、ぼくが訊きたいのは親父と小谷さんの関係で、高級な比喩でも言葉の抽象論でもない。親父と小谷さんはどういう関係で、小谷さんはなにを望んでいるのかという、それだけのことだった。 「この前部屋を訪ねたとき、手紙のこと、悪戯か冗談だと聞きました。あのことは、訂正しますか」 「わたしと部長のことはだれも知らない。気づかれないように注意してきたの。わたしは、疲れるほど、注意してきたわ」 「つまり……」 「部長から聞いたでしょう。シロウくんが思っている、そのとおりよ」  この前は見事に否定したり、今日は呆気なく認めたり、この人は、どこまで本気なのだろう。 「理由が、ぼくには、分かりません」 「本当に分からないのかしら」 「今まで隠しつづけてきて、なぜ突然、やめる気になったのか」 「疲れたと言ったでしょう。人に気づかれないように、知らないお店で食事をして、知らないバーでお酒を飲んで、知らないホテルに入るの。わたしのことはだれも知らない。もし手紙を書かなかったら、シロウくんもお母さまも、わたしの存在に、だれも気づいてくれなかったわ」 「そんなことが、理由ですか」 「存在しているのに存在していないことにされてしまう。生きているのにこの世にはいないわたしって、それなら、だれなの」 「小谷さんは、小谷さん以外の、だれでもないはずです」 「愛している人とは一緒に暮らしたい。その人の世界を共有したい。その人と世界を共有していることを、まわりの人に認めてもらいたい。当然のことだわ」 「親父を、愛して、いる?」 「愛していたらおかしいかしら。シロウくんには分からないでしょうけど、女は愛してもいない人と、一年もこんな関係はつづけられないものなの」  小谷さんが舌の先で、上唇をなめ、流し目の視線がぼくの顔を通り越して、酒瓶の並んだ棚へ光もなく動いていった。愛している、と言うなら愛しているのだろうが、その愛だけを存在理由にするほど、小谷さんという人は、純情なのだろうか。 「この前は否定して、お袋にも心配しないように、と言ったはずです」 「あのときはそう思ったのよ。手紙なんか出してしまって、ご家族にも迷惑をかけたなって」 「それが、どうして……」 「気が変わったの。部長には心配する奥さんや子供がいる。でもわたしにはだれもいない。一人で部屋に帰って、一人でテレビを観て、今度部長に会えるのはいつだろうって、考えるのはそのことばかり」 「小谷さん、何歳《いくつ》ですか」 「二十五。どうして?」 「そんなに若くて、なぜ親父に拘《こだわ》るんです」 「変わった質問をするのね。なぜわたしが人間で、なぜ生きてるのかって、それと同じことを訊いているのよ」 「つき合ったり、結婚したり、相応しい相手は、いくらでもいるはずです」 「シロウくんは人を好きになるとき、最初に理屈を考えるの?」 「今は、ぼくのことは、話していません」  小谷さんの目の端が、ぼくの顔を見つめ、うすい下唇の中心に、細かい皺が強く集中した。平板で素直な顔は、化粧の仕方でどうにでも印象が変わる感じだった。 「もしシロウくんが愛を知らない人だったら、話しても意味はないわ」 「ぼくには、小谷さんが親父に執着する理由が、分からないだけです」 「同じところに戻るのね。愛は執着だということが、シロウくんには分かっていないらしいわ。理屈に合うか合わないかではなくて、好きか嫌いかという、それだけのことなのに」  グラスの氷が、小谷さんの手の中で固い音をたて、少し癖のある化粧品の匂いが、息苦しく鼻先を通りすぎた。飲んでいるウイスキーに酔ってくる予感はなく、歯切れの悪い苛立ちに、小谷さんには見えない角度で、ひっそりとぼくは息をついた。 「ぼくに、分からないのは……」と、二つのグラスに小谷さんがウイスキーを足すのを待ってから、頬杖で唇を隠して、ぼくが言った。「小谷さんは、要するに、なにを望んでいるわけですか」 「最初に言ったとおりよ。男と女のことって、本質的には簡単なの。好きな人といつも一緒にいたい。独占したい。相手の人にいつも自分だけを見ていてもらいたい……そういうことだわ」 「その結果、相手の家庭が、崩壊しても?」 「わたしが愛しているのは部長だけ。あなたやお母さままで愛してはいないもの」 「親父の気持ちは、確認しましたか」 「部長もわたしと同じ気持ちよ。いつもわたしと暮らしたいと仰有るわ」 「離婚を、すると?」 「そのつもりでいると言ってくださる。シロウくんやお母さまにとっては、ご不満でしょうけどね。もう家族への義務は果たした。新しい人生を始めたい……それが部長の口癖だわ」 「親父も相手によって、口癖を変えます」 「どういう意味かしら。部長がわたしを、愛していないということ?」 「愛については、ぼくには分かりません。毎日考えてはいるけど、愛のことは、やはり分からない。でも親父とお袋は三十年も暮らしてきた。ぼくや姉貴を育てて、家も二人で建てて、ローンも二人で払ってきた。そういう家庭を、簡単に放り出せるとは思えません」  小谷さんのうしろ髪がスーツの肩を流れ、口紅のはげた下唇が歪んで、光を吸い込んだ視線が、一瞬ぼくを凝視した。その表情が怒りなのか、不安なのか、判断はできなかった。 「シロウくん、部長に、なにを言われたの」 「なにも……」 「わたしに別れ話をしてこいって?」 「ぼくは親父から、小谷さんとの事実を聞いただけです。今日会っていることは、だれも知りません」 「似たもの親子ねえ。都合の悪いことはいつも、だれにも知られないようにするわけね」 「親父の気持ちが本物で、小谷さんにも確信があれば、静かに待っているはずです」 「映画のラブストーリーではないのよ。待てば待つだけわたしは歳を取る。来月は二十六で、来年は二十七。ただ歳を取っていくだけの人生に、だれが責任を取ってくれるの」 「親父に責任を、取らせたい?」 「当然でしょう。この一年間、わたしは自分の時間をすべて部長に捧げてきた。これ以上黙って、なにを待ったらいいわけ」  つき刺さる小谷さんの視線を、グラスの表面で受け止め、呼吸を整えてから、その視線を、ぼくはていねいに押し返した。 「親父とは関係のない、小谷さん自身の生活は、ないんですか」 「やっぱり別れ話じゃないの。シロウくんの判断? それとも部長のご意向?」 「二人が本気ならぼくに口を出す余地はありません。嬉しくはないけど、お袋との離婚も仕方ないと思います。でももし、どちらかに躊躇《ためらい》があるとしたら、代償が大きすぎます」 「上手な言い方をするのねえ。部長に離婚する意思はないと、はっきり言えばいいじゃない。シロウくんはそのことを言いに来たんでしょう」 「ぼくは、当事者では、ありません」 「それなら口出しは無用ということね。わたしと部長だけで、二人で話し合えばいいことだわ」 「ぼくも当事者ではないけど、お袋も当事者ではありません。親父と小谷さんだけの問題なら、手紙や電話は、ルール違反です」  小谷さんの睫が動いて、小鼻の脇に、うっすらと赤い毛穴が浮きあがった。 「親父の本心に、小谷さんは、気づいているはずです」と、小谷さんから視線を外し、自分の言葉を不愉快に聞きながら、ぼくが言った。「親父が許せないなら親父だけを責めてください。親父が小谷さんを騙したのなら、罪の償いもさせてください。でもそれは、あくまでも、二人だけの問題です」 「二人だけで解決できていたら、わたしだって、あんなことはしていない」 「離婚させて、無理やり一緒になって、親父か小谷さんか、お袋かぼくか姉貴か、だれか一人でも幸せになりますか。それぞれの立場で、全員が、不幸になるだけです」 「それぐらいのこと、分かっているわ。でも知らん顔をして、何もなかったように部長をお返ししたら、わたしはどうなるの。部長と部長のご家族だけが幸せになって、わたし一人が不幸になるのよ。そういうことはルール違反ではないの?」 「小谷さんは勘違いをしています」 「どこがどういうふうに、勘違いかしら」 「親父と小谷さんが別れたとして、ただ日常が戻ってくるだけです。ぼくもお袋も姉貴も、幸せになるわけではありません」 「でも……」 「トラブルが広がらなかったという、それだけのことです。もちろん、小谷さんと別れる親父だって、幸せにはなりません」  小谷さんのパッドの入った肩が、左右に小さく揺れ、白いブラウスの襟から、金色のネックレスが細く輝き出た。ぼくの言う理屈ぐらい小谷さんだって承知しているはずだが、要は認めるか認めないかという、気持ちの問題なのだろう。親父に責任があるとすれば、小谷さんと関係をもったことより、小谷さんの心を頑なにさせたことのほうに責任がある。 「参ったわねえ。応援団まで繰り出されて、わたしに勝ち目はないみたい」と、目の高さでしばらくグラスを眺め、また舌の先で唇をなめて、小谷さんが言った。 「ぼくは、だれの応援団でも、ありません」 「わたしを応援してくれなければ、結果的に部長の応援になってしまう」 「小谷さんの肩を持つわけにはいきませんから」 「それはそうよね。シロウくんにはシロウくんの立場があって、素直に従っているだけですものね」 「小谷さんなら、どういうふうにでも、幸せになれます」 「お世辞はいいの。あなたに言われなくても、自分のしていることは分かっているつもり。わたしも疲れていたみたいね。東京での一人暮らしって、やっぱり疲れるわ」  小谷さんの髪が頬にかかり、額と鼻の頭を残して、ぼくの視界から簡単に表情をさらってしまう。 「小谷さん。故郷《くに》は、どこですか」 「青森。五所川原という小さい町……知ってる?」 「いえ」 「雪が多くて、寒くてね。東京に出てきたころ、冬が暖かくて嬉しかった。冬が暖かいというだけで、幸せになれそうな気がしたのに……七年も一人で、わたし、何をしてきたのかしら」  ぼくの手の中で、グラスが震え、コースターの水滴が罪の意識と一緒に、躊躇ながらにじんでいく。マスターの吸うタバコの煙が輪になって流れ去る。ジャズのトランペットが頭の芯に突き刺さり、ぼくは悪寒を感じて、ジャケットの襟をそっと重ね合わせた。抑えていた怒りが微熱のようによみがえったが、それは小谷さんに対する怒りではなく、わけの分からない、空虚さに対する怒りだった。 「そろそろ、故郷、雪が降るころだわ」 「はい……」 「冷たくて、暗くて、春になると汚くて、わたし、好きじゃなかった。三年も帰っていないけど、今年のお正月は帰ってみようかな」  怒っているくせに、やはり悲しくて、ぼくは空になったグラスを、意味もなく掌に包みつづけていた。酔うはずのない酒を飲むことの腹立たしさに、我慢が限界を超えてくる。  ぼくがグラスを置き、小谷さんが顔をあげ、唇だけで微笑んだ小谷さんに、カウンターを離れながら、ぼくは小さく会釈をした。言葉も思いついたが、口に出す気にはならず、カウンターに頬杖をついた小谷さんを残して、ぼくは店を出た。生暖かい夜の空気に雪の冷たさが錯綜して、道に転がっていたジュースの空き缶を、スニーカーの先で、ぼくはぽーんと蹴飛ばした。     * 「もしもし。昨日は、ごめん」 「うん」 「怒らせるつもりはなかった」 「謝る癖、やめたら?」 「そうだな。君……」 「なあに?」 「寝ていた?」 「まだ」 「アルバイトは?」 「まだ」 「突然、思いついた」 「なにを」 「君の名前」 「なんのこと?」 「初めて会ったとき、君は、おかしい名前だと言った」 「そう?」 「突然思いついた、白夜のことかなって」 「ふーん」 「当たったろう」 「親父が捕鯨船に乗っていて、グリーンランドにいたときわたしが生まれたの」 「そうだと思った」 「わざわざ、そのことを?」 「そう」 「それだけ?」 「できれば、会いたい」 「デート?」 「うん」 「明日?」 「うん」 「わたし、帝釈天がいいわ」 「なん時?」 「正午《ひる》ごろ」 「それじゃ、一時。柴又の駅」 「分かった。おやすみ」 「あ……」 「なあに」 「なんでもない……おやすみ」 [#改ページ]     7  お袋が干している庭の洗濯物に、塀の向こうから乾いた光が乱暴に射し込んでくる。夏のような雲が鮮明な輪郭で青い空に浮かび、色のうすい公孫樹の葉が低い空を快活に飛んでいく。黄色く垂れた柚子の実は華やかで、咲き急いだ山茶花が伊吹《いぶき》の前で赤い花を咲かせている。洗濯物を干しているお袋は、ぼくが生まれたころからお袋で、ぼくが生まれたころから、同じおかっぱ[#「おかっぱ」に傍点]のような髪型をしている。いつからお袋の髪に白髪が混じっているのか、頬の縦皺が太くなっているのか、思い出そうとしても記憶は今の現実に、すっと吸い取られてしまう。 「お天気がつづくからいいけど、喜衣に入院されると洗濯物が増えて大変だわ」と、空になった洗濯籠をベランダの柱に引っかけ、廊下のほうに戻りながら、お袋が言った。 「いく日でもないさ。一週間の予定だから、来週には退院する」 「病院って宅配便を扱わないのかしら。洗濯物を持ってきたり届けたり、面倒なことよねえ」  踏み石にサンダルを脱ぎ捨て、お袋が厚いソックスで居間にあがって行き、ぼくは冷めたコーヒーを一すすりしてから、日射しの中で、ちょっと欠伸をした。親父は暗いうちにゴルフへ出かけたというし、どうせ夜も飲んでくる。小谷さんの件をお袋に経過説明するわけにもいかず、デートの予定を自慢するわけにもいかず、辛いような嬉しいような、罪深い気分だった。眠いのか走り出したいのか、自分の気分と体調を、ぼくはまるで理解していなかった。 「シロウ、昼食《おひる》はどうする? お鮨でも取ってみる」 「ぼくはいい。もう少ししたら、出かける」 「アルバイトでも見つかったの」 「認識が甘かった。日本の景気って、泥沼らしい」 「お友達の奥さんなんか大宮にブティックを出したわよ。お客もたくさん来るって」 「そのブティックに勤めようかな」 「まともに他人《ひと》と話もできないくせに。シロウにお客商売ができるなら、喜衣なんか漫才師になれるわ」  お袋の姉貴に対する評価は、いつも多少、穿《うが》ちすぎている気がする。言葉の弾みというより、気持ちのどこかに、女として姉貴の生き方を羨む部分があるのかも知れない。 「シロウが出かけるなら、わたしも買い物に行くわ。お歳暮も考えなくてはならないし」と、背伸びをして台所に歩きながら、咳込むように、お袋が言った。 「姉さんがクリーニングを出しておくようにってさ」 「昨日はなにも言ってなかったけど」 「夕方、ちょっと、病院に寄ってみた」 「行かないと言ったじゃない」 「姉弟だし、義理もあるしさ」 「仲が良くて結構だわねえ。あなたが不良にならないのが、不思議なぐらいだわ」 「銭湯のとなりのクリーニング屋。預かり証は茶箪笥の引き出し」 「退院してから自分で出せばいいわよ。クリーニング屋は夜逃げしないもの」 「頼まれたから言っただけ……父さん、今夜も遅いのかな」 「接待ゴルフだというから、早いはずはないわね」 「例のこと、なにか、言ってた?」 「関係ない、の一点張り。関係はなくても責任はあるのに」 「悪戯や中傷は、父さんの責任ではないさ」 「思い出すと腹が立ってくるわ。うちの人間って、どうしてみんな無責任なのかしら。娘は我儘で自分勝手。息子は母親に昼食《おひる》もつき合わない。大宮のデパートでバーゲンをやっていたら、だれが責任を取ってくれるのよ」  お袋が台所から、奥の部屋に入っていき、ぼくはまたコーヒーをすすって、日射しの中を飛んできたシジミ蝶に、長く口笛を吹きつけた。小谷さんの問題は片付いた、とも言えないし、デパートの買い物につき合うとも言ってやれない。親父にはいつか、それなりのペナルティーを、ぜったい払わせてやる。     *  柴又に行くには上野からの京成線を乗り継ぐ方法と、日暮里で常磐線に乗り換え、金町から船橋方向へ戻る行き方がある。ぼくが家を出たのは、きっかり十二時だった。  歩くたびに、電車を乗り継ぐたびに、ぼくの躰は淡々と柴又に近づいていく。頭の中には不安と確信が背中あわせに同居し、心静かな瞬間もあれば、足がもつれて顔が火照ることもある。昨夜の電話も今日のデートも、行動様式は自覚できるほど破綻している。それでも自分の無謀さを快く感じている部分が、どこかに、なくはない。  ぼくは京浜東北線に乗ってから、停車駅の少ない常磐線経由を選び、隅田川も荒川も越えて、金町から柴又に出た。山口明夜は先についていて、改札の向こうにグレーのショートジャケットで寄りかかっていた。パンツはモスグリーンのフレンチジーンズ。ウエスタンシャツの襟には浅く黄色いバンダナが巻かれていた。スカート姿も期待したが、部屋で見かけた記憶はないし、沓脱にはパンプスも見当たらなかった。となりに手塚修司という人を探してしまう自分は、山口明夜になにを期待しているのか。知り合う前の起伏のない日常が、懐かしいほど、昔のように感じられる。  山口明夜は顔をあげず、声のかけ方も分からなくて、すぐ横まで歩いてから、ジャケットの肩に、ぼくはそっと手を置いてみた。二重の大きい目が寝起きのように見開かれ、尖った顎が黄色いバンダナの中に、小さく沈み込んだ。 「待たせてしまった」 「電車を二つだけよ」 「赤羽で会えばよかったな」 「同じこと。来る場所は同じだもの」  風はなく、駅前の空は埃が浮いたように霞んで見える。軒を接した家々の屋根に、汚れた鳩が雑然とたむろする。柴又には子供のころ来た気はするが、いつだったのか、だれと来たのか、どうしても思い出せなかった。 「帝釈天なんて、久しぶりだ」と、人の流れる方向に歩きながら、山口明夜の赤い唇に目を留めて、ぼくが言った。 「わたしは初めて」と、人波をまぶしそうに眺めながら、ちょっと背伸びをして、山口明夜が答えた。「でも映画はテレビで観たことがある。あの映画、だれが作ったの」 「山田洋次」 「黒澤明ではないの」 「似たようなもんさ」 「ビデオ屋に行っても数が多すぎて、なにを観ていいか分からない」 「棚に並んでいる映画をぜんぶ観ればいい。面白かった映画が、いい映画だ」  駅前から路地を少し歩き、信号のある交差点を渡ると、そこから先が参道になっていて、道幅の狭い門前町が人の頭越しに騒然とつづき始めた。山口明夜はしばらく口を開かなかったが、歩き方に屈託はなく、団子屋や佃煮屋の店先では足を止めるほど、率直な好奇心を浮かべていた。荒川の土手を走る山口明夜と、人面焼き煎餅を三枚も買った山口明夜との間にどういう一貫性があるのか、不可解でもあり、可笑しくもあった。忘れているはずもないのに、会ってから一度も、カーテンの件には触れてこなかった。  参道を途中まで来たとき、道の左手側に人垣のできている場所があって、ガラス窓の向こうでは男の人がなにやら白い縄《なわ》のようなものを振り回していた。店先に白褐色の飴が売られているから、中の職人は製造実演を見せているのだろう。山口明夜が人垣の中に立ち止まり、煎餅の袋をさげたまま、飴棒が細くなる過程を腕を組んで観察しはじめた。集まっている年寄りは実演の観賞など十秒で済ませ、一人ごとの感想を呟きながら、それぞれ次の店に移っていく。 「子供のころ、金太郎飴を作るところを、見たことがある」と、へんに真剣な山口明夜の横顔に、ふと気持ちが和んで、ぼくが言った。「飴の切り口が金太郎の顔になっていて、切っても切っても、同じ顔が出てくる」 「その飴、どうして桃太郎飴ではないの」 「金太郎飴だから」 「金太郎と桃太郎の区別は?」 「金太郎飴は金太郎飴で、桃太郎飴ではないんだ。昔から決まってる」 「昔から決まっているから決まっているというの、わたし、好きではないわ」  近くを七五三の子供が親に手を引かれ、うしろから年寄りの団体が声高に追い越していく。特別に背が高いわけでもないのに、山口明夜の短い髪と黄色いバンダナが、人混みの中に鮮かな輪郭を浮かべてくる。  帝釈天のすぐ近くまで来ていたが、山口明夜は電車を二つぶん、ぼくよりも長く立っていた。強靭な足腰は承知していても、休ませずに連れ回すことがデートの礼儀に適っているはずはない。それにぼくだって、形式ぐらいは、向かい合っての食事もしてみたい。  参道には団子屋と茶店以外に適当な店はなく、帝釈天見物はあと回しにして、ぼくらは寺の境内を右手側に迂回してみた。人通りが少なくなり、観光地ではない柴又の日常が、ひょっこりと顔を出す。パーマ屋や下駄屋の並びに喫茶店の看板もあらわれ、その先には『もんじゃ焼き』の暖簾《のれん》もかかっていた。デートなら理屈を言わずにデートをすればいいと、そのころになって、いくらかぼくも覚悟を決めていた。  紺の地に白抜きの文字が入った暖簾をくぐると、六つほどのテーブルは疎《まば》らに埋まっていて、ぼくらは調理場との出入り口に近い一番奥の席に腰をおろした。狭い店には油や粉の焦げる匂いが充満し、タバコの煙を換気扇がからからと掻き回している。  ぼくが『帝釈天スペシャル』という名前のもんじゃ焼きを選び、山口明夜にも一任され、海老ミックスと野菜炒めと、それから一瞬熟考して、ビールも注文した。高校生だってデートのときはビールぐらい飲むし、二十二歳の大人同士なら、社会的に不道徳な行為ではないはずだった。  ビールが来て、山口明夜が背筋を伸ばしたまま、店の中を見回して、一つくしゃみをした。デイパックもハンドバッグも持っていないから、口紅はポケットにでも入っているのだろう。山口明夜の能力なら、財布を落としても赤羽ぐらい走って帰れるのだ。 「金太郎飴のことは、君の意見が正しかった」と、二つのコップにビールを注ぎ、一口飲んでから、ぼくが言った。 「どうでもいいけど……そうか、どうでもいいことは、なかったのね」 「一つだけあった。金太郎飴のことは、やっぱりどうでもいい」  山口明夜が肩をすくめ、前髪を指で払って、曖昧な角度に視線をそらしていった。右目蓋に散っていた星のようなソバカスに、色はなく、注意しても皮膚の色と見分けはつかなかった。 「わたし、もんじゃ焼きは初めて。うちの故郷《いなか》にはないの」 「月島に行くと町中でもんじゃ焼きをやってる。だからどうということは、ないけど」 「月島って、どこ?」 「銀座からずっと東のほう」 「東京って広いのよね。まだ乗っていない地下鉄が、いくつもあるわ」  山口明夜がビールに口をつけ、躊躇《ためらい》もなく飲み干して、飲み方を自慢するように、唇から白い歯をこぼれさせた。故郷の話に相槌を打つと、『走人』を調べたことも手塚さんに会ったことも、気づかれる可能性がある。触れなくて済むものなら、できれば、今はその話題に触れたくない。  もんじゃ焼きが来て、ぼくが解説をしながら手本を示し、山口明夜も一途にへら[#「へら」に傍点]を使いはじめた。具で土手を作ってまん中に汁を流し込む手順なんか、真面目に解説するのも馬鹿ばかしいが、そういう馬鹿ばかしさに恥を感じない自分が、少し嬉しかった。 「昨夜の電話……」と、首のバンダナを弛めながら、焼けた鉄板を怪訝そうに睨みつけて、山口明夜が言った。「わたしの名前が白夜に関係あること、どうして分かったの」 「自分の名前を訊かれたとき、閃いた」 「柿の木で白夜が閃いたの」 「そう」 「変わってるわね」 「連想は得意なんだ」 「わたしは苦手」 「お父さん、まだ捕鯨船に乗ってるの」 「高校生のときに結核で死んだ」 「結核なんかで、まだ人が死ぬんだな」 「風邪で死ぬ人もいる。盲腸で死ぬ人もいるわ。友達では日射病で死んだ子もいる」  山口明夜が眉を片方だけ歪め、鼻先を右側に曲げて、悪びれもせずに微笑んだ。 「そういえばお姉さん、どうしてる?」 「元気に入院している。来週には退院する」 「お姉さんも晴川くんも変わってるわ。東京の人って、変わった人が多いみたい」  山口明夜のほうがずっと変わっている気はするが、姉貴の件を出されると、反論はできなくなる。それに故郷の話題に触れないまま、いつまで話をつづけられるのか。アルバムにあった高校時代の写真では、出身が石巻だということまでは分からないはずだった。  鉄板の上が活況を呈しはじめ、そろそろ会話より、手の動きに神経を集中する場面になってきた。もんじゃ焼きは一気に焼きあげ、一気に食べてしまうのが極意なわけで、そういう意味ではデートに相応しい食事とはいえなかった。渋谷か新宿ならエスニックレストランも知っているし、もし山口明夜に『ぼくなんかとデートをしている暇』があるのなら、ぼくはカメラを売ってでも、資金を調達してみせるのに。 「君……」と、生真面目な手つきでへら[#「へら」に傍点]を動かす山口明夜に、突然感動して、ぼくが言った。「友達をつくるの、嫌いみたいだな」 「そうなのかな」 「そう見える」 「晴川くんは?」 「ぼくは、自然に、少ない」 「わたしも同じ。無理に友達がほしいとは思わないわ」 「淋しくないの」 「淋しいから友達をつくるのって、相手に失礼だもの。淋しいだけなら一人で我慢できる」 「偉いんだな」 「他人に頼りたくないの」 「マラソンは孤独だから?」 「生まれつきの性格」 「気が合うかも知れない」 「わたしは変わった人、苦手だわ」 「映画やコンサートより、帝釈天を選ぶ人も変わってるさ」  山口明夜の尖った顎が、赤く染まりながら形を崩し、その間、鉄板の上をなん秒か、玉葱《たまねぎ》の焦げる音がかたくなに跳ねつづけた。山口明夜は口を開かず、緊張とはちがう決まりの悪さで、しばらくぼくは思考を放棄した。 「白状するけど、こういうふうにデートするの、初めてなの」と、割り箸を小皿の上に置き、それでも果敢に視線を上むけて、山口明夜が言った。「映画のことも知らない。音楽のことも知らない。わたしとデートしても、楽しくないでしょう」  山口明夜の言葉が本当なら、柴又まで来たのは、単純にデートをしてみたかったから、ということになる。手塚さんからの連絡は受けていないらしいが、その結果を率直に喜んでいいのか、ぼくにはまだ、判断できなかった。 「晴川くんは、退屈してるわ」と、ぼくの顔を見つめたまま、無理やり怒らせたような目で、山口明夜が言った。 「どうして」 「見れば分かる」 「勝手に決められても困るな」 「常識があれば分かることだもの」 「そういうのは傲慢だ。デートをして楽しいか楽しくないかは、相手が決める」 「それなら早く決めて」 「忙しいな」 「ぐずぐずする人って、わたし、嫌いなの」 「ぼくは、なんでも、ゆっくり決める」 「わたしは早く決めてもらいたい」 「本当は、決まってるんだ」 「そうなの」 「決まってるさ。高田馬場で会ったときから、君のことを考えるだけで、ぼくは毎日が楽しかった」  山口明夜の怒った視線が、怒ったまま狼狽《うろた》え、それから突然横に飛んで、あとは揺れる波を見つめるように、頼りなく店の中を漂いはじめた。ぼくは長い間息を止めてから、ビールの残りを飲み干し、目を閉じて、頭の中で大きく深呼吸した。我慢できなくなる予感はしていたが、こんな大事なことを、なにももんじゃ焼きを食べながら言わなくてもいいではないか。 「今、やっと気がついた」と、鼓動の音を躰の外側に聞きながら、ガスの栓を止めて、ぼくが言った。「君には一つだけ、欠点がある」 「あるはずない」と、口を固く結んだまま、腹話術のような声で、山口明夜が言った。「いいところがなければ、欠点だってないわ」 「それが、一つ、ある。自分にスカートが似合うことを、君はまるで自覚していない」  山口明夜がゆっくりと視線を戻し、珍しいものを見るように、その丸い目を大きく見開いた。 「晴川くんの欠点は、見かけより強引なところね」 「君に会ってから毎日訓練していた」 「強引になることを?」 「目の前の問題に、一つずつ結論を出していくこと」 「でもそれ、間違ってるわ」 「そうかな」 「スカートのこと。わたしにはスカートが似合わないの」 「決めつけるところも欠点だ」 「分かっていないからよ」 「なにが」 「わたし、上半身にくらべて脚が太いの。膝は傷だらけ。ふくらはぎも太腿も、筋肉ばっかり」  答えようとしたが、どう考えても反論できる問題ではなく、山口明夜のふてくされた目つきに、思わずぼくは笑ってしまった。陸上競技の選手なら脚に筋肉がついて当然で、しかし女の子というのは、そんなことにでも悩めるものなのか。 「ぼくの勘は、やっぱり正しかった」 「なんの勘?」 「初めて会ったとき、君のこと、見かけより可笑しい人だと思った」 「わたしは変わった人だと思っただけ」 「そのうち慣れるさ。ぼくだって自分に慣れるのに、二十二年もかかっている」  山口明夜が強情そうな唇を、初めて素直に笑わせ、目でため息をついてから、取り出したハンカチでそっと顎の下を押さえ込んだ。鉄板はまだ名残りの熱を放射していたが、汗をかくほどではなかった。山口明夜の感じている暑さは、できればぼくと同じ、心理的なものであってほしかった。  もんじゃ焼きも片付き、冷汗もかいたことだし、外の空気が吸いたくなって、ぽくらは店を出た。どこか遠くのほうにまだ手塚さんの影は感じても、それが罪の意識にまで膨らんではこなかった。アパートの部屋で見せる山口明夜の屈託も、不安になるほど伝わってこない。ぼくたちが単純に、仲のいい恋人同士だったとして、どこが、どういうふうに問題なのだろう。  店を出ると、日射しはうすい靄《もや》の中に朦朧《もうろう》と陰っていて、ミルク色の空を黒いカラスが飛び、参道のほうからは拡声器の音と、相変わらずの喧噪が地を這って響いていた。来た道を戻れば、帝釈天の山門に行きつく。しかしぼくらは人混みを遠慮し、境内の外を回って江戸川まで歩くことにした。社殿は帰り道にでも見物できる。山口明夜の意向によっては、ぼくのほうはパスしてもまるで構わなかった。  クルマがやっと通るほどの道を東に向かい、ゴルフ練習場や駐車場の間を抜けると、正面に衝立のような土手が広がってきて、低いビルや家並みの圧迫感が、一気に解消される。江戸川は千葉と東京の境を流れていて、隅田川も荒川も越えているから、東京の外周をぼくらはずいぶん遠くまで来たことになる。  赤羽の荒川土手とは違って、上のほうに向かうコンクリートの整備された階段があり、大回りもせず、ぼくらは簡単にその土手をのぼっていった。河川敷の広さは荒川と似たようなものだったが、手前にも対岸にもゴルフコースが見え、土曜日のせいか、土手の舗装路に沿って圧倒的な数の子供が自転車を走らせていた。斜面にはセイタカアワダチ草やイノコズチの雑草もなく、花壇が仕切ってあるわけでもなく、手入れのいき届いた大空地という感じだった。 「こういうところに来て走らなくていいと思うと、不思議な気がする」と、対岸が霞《かす》む草地に膝を伸ばして座り、煎餅の袋を横に放って、山口明夜が言った。  広い河川敷や草の匂いや、風景の配置がやはり荒川に似ていて、並んでとなりに座りながら、奇妙にぼくは懐しい気分だった。当てもなく山口明夜の顔を思い浮かべていたのは、たった四、五日前のことだ。あのときは自棄っぱちな情熱がぼくを励ました。ペットショップを探したり、直接アパートを訪ねたり、荒川の土手で出会ったり、雨の中を赤羽の駅まで送られたり、それらのことはすべて、思い込みと偶然が重なっただけのことだった。今となりに、山口明夜が座っている事実だって、もしかしたら、偶然が幸運の側にかたむいているだけのことかも知れない。  山口明夜の横顔は、凹凸のない鼻筋が柔らかく尖り出し、輪郭のはっきりした上唇が平らな頬に切れ込んで、頤《おとがい》からのカーブが顎の先端まで薄情そうにつづいている。ピアスの光る耳たぶは幅がなく、額には癖のない前髪が横向きに流れている。肩は少し骨張っていて、腕も指も長く、固そうな小さい胸を刺繍入りのウエスタンシャツが余裕をもって包んでいる。脚は『筋肉ばっかり』と言うが、バランス的に文句はないし、投げ出したフレンチジーンズには膝の突き出しも見えていない。依怙地《いこじ》な性格に腹は立っても、それを言ったらお互い様だろう。たった二十二年生きただけで山口明夜に会えたのは、ぼくにとって、奇跡的な幸運だった。 「あの犬たち、もう問屋に返されたかしら」  ぼんやりしていて、一瞬言われたことが理解できなかったが、山口明夜の視線ははるか空地を越え、遠く河川敷の彼方に向かっていた。セーター姿の家族連れやなん匹かの犬が、川筋に沿って疎らな散らばりを見せている。すべては犬がカメラをなめたことから始まったのだから、あの犬の運命にはもう少し、誠意をもって対処するべきだった。 「晴川くんに会った日は、彼らとお別れ会をしていたの。犬でも猫でも、見ているだけなら可愛いのにね。晴川くんの言ったこと、考えたわ」 「うん?」 「人間に飼われることが、犬や猫にとって幸せなのか。飼い主が優しいとか優しくないとか、そういうことではないの。勝手にペットにしたり、品種改良したり、そういうことをしていいのかな。ペットは、人間が飼わなければ生きていけないと言うけど、ペットをそんなふうにしてしまったのは、だれなのか」 「君……」 「なあに」 「君のアルバム……」と、唐突であることは承知で、ぼくが言った。「高校を出てからの写真が一枚もなかった。走っては、いたんだろう」  訊いてはいけないことかも知れないし、できれば、今だって避けて通りたい。もんじゃ焼きを食べて江戸川を散歩して、帝釈天にお賽銭をやっておみくじを引いて、それから電車に乗って赤羽に帰る。次のデートも、その次のデートも、ぼくさえ我慢すれば、いくらでも楽しくつづけられる。  土手のぼくらの頭の上を、中年の男の人が安物のジョギングスーツで走り抜け、それを見送ってから、山口明夜が可笑しそうに首をのけ反らした。 「趣味で走るだけなら、ジョギングって、楽しいものだわ」  素人のランナーは川の対岸にもいて、目を凝らせば派手な原色のウエアが、上流にも下流にも、いくらでも見渡せる。 「子供のとき、普通に走ったらクラスで一番速くてね。少し練習したら学校で一番速くなって、市内の大会に出て優勝したの。親父やお袋が喜んでくれた。学校の先生も友達も喜んで、みんなが喜ぶなら、もっと速くなりたいなって、そう思った」  風景が荒川に似ているせいか、山口明夜の表情に、特別な屈託は浮かんでいなかった。 「あのころはただ走っていればよかった。なにも考えずに練習して、ただ速く走ればいいと思った。走るたびに記録も伸びて、走ることが楽しかったわ」 「高校を出てからは?」と、対岸の土手に顔を向けたまま、ぼくが言った。 「晴川くん。テレビで駅伝とかマラソンとか、観る?」 「これからは、観る」 「あの人たちは企業ランナー。会社に属していても、仕事は走るだけ」 「君も?」 「二年前まではね」 「一昨日《おととい》は事務員だったのにな」  山口明夜が肩をすくめ、眉をしかめながら、頬から口の端に向けて、呆れたような皺をつくってみせた。 「捻挫もしたし、疲労骨折もした。競技会が近づくと脂肪を極限まで落とすから、生理も止まってしまう。どこまで走ればいいのか、なんのために走るのか。自分でも分からなくなった。あの長い距離を他の人よりちょっとだけ速く走ることに、どういう意味があるのか、そんなことも考えてしまった」  靴の先で芝の根を弾いて、ミルク色の空に唇をすぼめ、山口明夜が静かに、小さく欠伸をした。怪我や体調の問題や能力に対する疑問や、それはたぶん、山口明夜の言うとおりだろう。しかしそれなら、彼女以外の選手だって、彼女より才能のない選手だって、同じ故障や悩みを抱えながら走っている。  荒川の土手で会ったとき、走るのは二年ぶりだと言った。赤羽のアパートに越してきて以降は走っていなかった。高校を卒業してからの二年間は化粧品会社の陸上部で走っていた。会社を辞めてからは、走ることに無縁な生活を送っていた。そういう輪郭は理解できるが、ぼくが知りたいのは、そんな、履歴書に書くような輪郭ではない。二年前、山口明夜から走る意思を奪ったのは、だれなのか。そして一度脱いだジョギングシューズに、荒川の土手で、なぜまた山口明夜は足を通していたのか。  空の高いところをカラスほどの鳥が耳障りに鳴いて、上昇気流を受けながら集団で飛びさっていく。胸の白さや鳴き声はウミネコらしいが、そうだとすると、この辺りは、ぼくが思っていたよりずっと海に近いのだろう。 「君の言うこと、なにか、おかしいな」  山口明夜の平らな額に、気楽な皺が浮きあがり、焦点の曖昧な視線が、遠くぼくの顔をのぞき込んだ。山口明夜が企業ランナーになった経緯や、それをやめた理由や、そしてそういうことに手塚修司という人がどう係わっているのか、知りたくはないが、知らなくては、ぼくはただの傍観者で終ってしまう。 「他の人より一秒か二秒速く走っても、たしかに意味はない。でもそれは、君の世界とは次元がちがう」 「どういうこと?」 「世界一速い選手より、君が一秒速く走ることには、ちゃんと意味がある。そのことは君が、一番よく知っている」  消えていた右目蓋のソバカスが、緊張の気配と一緒に、驚くほどの早さで色を増してくる。 「君に才能があるから、可能性があるから、ネイチャー化粧品は君に期待した。手塚さんだって君に人生を賭けた。君の悩みも、疑問も才能も、君一人のものではなかったはずだ」  山口明夜のざわめく呼吸が、ぼくとは無縁な場所で十秒ほどつづき、突然漂いはじめた殺気が、息苦しくぼくの神経を刺激する。 「会社や、手塚さんのこと、どうして知っているの」と、視線をぼくの横顔に固定したまま、背中を丸め、寒そうに膝を抱えて、山口明夜が言った。 「調べたんだ」 「どうして」 「君のことを、知りたかった」 「どうして?」 「ぼくが君のことを知りたいと思うのは、当然だ」  まだ、たぶん、引き返せる。謝ることも、説明することも、いくらでも出来る。大人のふりをして、寛大なふりをして、傷口に知らん顔をすることだって、いくらでも出来る。 「わたしに訊けばいいでしょう。隠れてそういうことをするの、卑怯だわ」 「単純に、君のことが、知りたかった」 「話したでしょう。子供のときのことも、親父のことも、マラソンのことも」  引き返せなくても、まだ、立ち止まることは出来る。立ち止まって、ご破算にして、食事をしていた場面から、もう一度やり直すことは出来る。 「でも君は、肝心なことを、なにも言わなかった。会社をやめた理由も、走ることをやめた本当の理由も、君はなにも言おうとしない」  山口明夜が言葉を飲み込み、首の筋をかすかに震わせながら、フレンチジーンズの膝に、強く指を這わせた。 「話す必要はないよな。君にも言いたくないことはあるし、ぼくが知っても、仕方ないことはある」  対岸の河川敷で、低い喚声が沸き起こる。喚声は水の上を伝わり、風に流されながら余韻となってこちら岸に響いてくる。人の動きからはサッカーらしいが、そういえばぼくには、サッカーとラグビーの区別もつかないのだ。 「だれだって本当は、君のように走りたい。世界一になる可能性がないから、みんな、仕方なく、趣味で走っている」  ぼくの口から言葉を出しているのは、ぼくなのか手塚修司という人なのか、見極める気力は、もうなくなっている。 「『世界に通用する可能性』なんて、だれが持ってるんだ。才能のある人間はいくらでもいる。だけど本当に可能性のある人間は、数えるほどしかいない」 「勝手な感想は言わないで」と、冷めた声で、膝を抱えたまま、唇を動かさずに、山口明夜が言った。「わたしが走ることを、どれだけの人が妨害したと思う? 非難や、中傷や、嫉妬や、走ることには関係ないのに、みんながわたしたちの邪魔をした」 「わたしたち[#「わたしたち」に傍点]の、な」 「人間がただ走るだけのことなのに、なぜそこまでするの。走るって、そんなに大事なことなの」 「ぼくには分からない」 「そうでしょう。分からないことに意見を言うのは、失礼でしょう」 「走ることの意味は分からないけど、走ることが君にとって大事だったことは、分かる」 「それもどこかで調べたわけ」 「君の部屋には生きる意思がない。二年も住んでいるのに生活がない。自分の一番大事なものを放棄したら、だれだって、生きることに無気力になる」  山口明夜が静かに身を引き、膝を片方だけ曲げて、反動も使わず、平然と立ちあがった。なにかの虫が顔の前を飛んだが、バッタなのか、トンボなのか、ぼくは、見る気にもならなかった。 「晴川くんのこと、もっと大人だと思っていた」 「大人になりたいとは、思う」 「他人の生き方を詮索するのが、そんなに面白いの」 「……」 「わたしはだれからも詮索されたくない。勝手に調べられたり、中傷されたり善意を押しつけられたり、だれからもしてほしくない」 「大人というのは、面倒だ」 「わたしの過去を調べる権利も、今の生活に干渉する権利も、あなたにはなにもない」 「分かっている」 「分かっていないわ」 「分かっているさ」 「嘘よ」 「分かってるんだ。君を好きだということが君に対する権利にならないことぐらい、最初から、ぼくには、分かっている」  遠くの靄っている水の中で、マガモの群れがざわざわと羽音をたて、水跡を残しながら、下流のほうへ追われるように移動していく。試合が終わったのか、対岸のコートに人が集まり、躰の動きで興奮や歓喜を伝えあっている。空は乳灰色で、風は生暖かく、緊張感のない空気が確実な雨の匂いを運んでくる。  山口明夜が歩き出し、ぼくはふり返ることも立ちあがることもできず、躰に伝わってくる草の冷たさに、いつまでも耳を澄ましていた。感情の振幅は我慢の許容量を振り切り、血管を流れる寒い血が、皮膚の奥に違和感のある鳥肌を押しあげる。言葉の出ない空白は安らぎに似ていて、悲しみや涙の予感を、ぼくはまるで感じなかった。  日が落ちて、目の前に薄闇が広がって、土手からも河川敷からも人影が消えたころ、自分が悲しんでいることと、草の上に煎餅の袋が残っていることに、ぼくは、やっと気がついた。     *  有線のポップスが澱んだ空気の中を、気だるく流れていく。マスターはカウンターの向こうに立ったまま、ドーナツを齧《かじ》りながら競馬新聞を開いている。ぼくの前には姉貴のボトルと、水割りのグラスとしけったピーナツが置かれている。客はなく、照明は暗く、壁紙に浮いた染《し》みを小さいゴキブリが横切っていく。頭に充満したウイスキーが、有線の音楽を間欠的に聞き分ける。指先がグラスの冷たさに過剰反応し、背中の鳥肌が重心を歪めてくる。膨らんだり縮んだりする空気が、ぼくの体重を悲しいほど不安定にする。  ドアが開いて、外のざわめきと一緒に、焦げ茶色のスーツが忙しなく店に入ってくる。どこかで見たような顔で、相手も同じことを考えている。 「妙なところで会うなあ。晴川、この店の常連だったのか」  ためらいもせず、相手がぼくのとなりに座る。中学で同級になったことのある、杉森という男だ。親しかった記憶もないが、無視したいほどいやな記憶もない。 「なん年ぶりだ? 中学を出てから、どこかで会ったっけな」 「あまり出歩かないし、同窓会にも出ない」 「そうなんだよなあ。晴川が同窓会に出ねえから、聡子なんかむくれてるぜ。覚えてるだろう、バスケットやってた生島聡子」  そんな女の子がいたことは、覚えている気もする。ぼくより背が高い赤ら顔の子だった。しかしぼくのために生島聡子がむくれる理由は、思い出せない。 「聡子なあ、去年結婚して、もう子供が生まれるんだ」  ビールを一息に飲み干し、タバコに火をつけて、杉森が充血した目を可笑しそうに見開く。 「相手は医者なんだけど、歳は五十だぜ。背なんか聡子より二十センチも低いんだと。男も男だけど、聡子も聡子だよなあ」 「いろんな組合せがあるから、遺伝子もうまく混じり合う」 「なんのことだ」 「好みは本人にしか分からないということ」 「だけどよう。五十の爺さんと結婚することはねえだろう。高校いってから聡子、意外と垢ぬけたしなあ。そういや晴川、病気したんじゃなかったか。病気して高校を中退したとか、だれかに聞いた気がする」  自分のことなのか、別人のことなのか、ぼく自身、自分の歴史が曖昧になってくる。中学を出てからなん年がたっているのか、簡単な計算もおぼつかない。 「惜しいことしたなあ。おまえ、成績はよかったのになあ」 「学校で成績のいい奴なんか、いくらでもいるさ」 「でも晴川ならいい大学に入れて、いい会社にも就職できたろうよ。岩崎な、岩崎芳則。あいつなんかどっかの医学部だぜ。使いっ走りしてたあんな野郎が、末はお医者様だとさ」  マスターが腕を伸ばして、杉森のグラスにビールを足し、それから壁に寄りかかって、また競馬新聞を読みはじめる。 「岩崎で思い出した」と、オールバックの髪を撫でつけ、タバコを吹かして、杉森が言った。「おまえ、岩崎とつるんで[#「つるんで」に傍点]た片岡ってやつ、覚えてるか」 「どうだかな」 「三組にいたろうよ。親父がテレビのプロデューサーとかで、いつもタレントのサインなんか見せびらかしてたやつ」 「武田アリサとつき合ってた、片岡?」 「あの片岡だ。あいつな、今年の春ごろ女に殺された。知ってたか」 「さあ」 「騒がれたんだぜ。週刊誌にものった。可哀相によう、女に毒を盛られたんだ」 「大変だったな」 「それがよう、そのちょっと前、新宿で片岡に会ったんだ。女も一緒だった。俺も彼女と一緒だったから話はしなかったけど、あとで新聞を見てびっくりした。別れ話のもつれなんだとさ。女ってのは恐ろしいよなあ」  杉森がビールをウイスキーに代え、自分のボトルから、ぼくのグラスにも注ぐ。誘われるまま、ぼくたちはグラスを合わせる。知り合いがすべて友達なら、ぼくにも呆れるほど友達がいる。そういうことの厳密な区別が、そうでなくても、今は煩わしい。 「それで晴川、おまえ今、なにをやってるんだ」と、杉森が訊く。 「アルバイト」と、ぼくが答える。 「フリーターか」 「まあ、そうだな」 「この景気じゃよう、フリーターも大変だろうよ。碌《ろく》な仕事もねえって聞いたぜ」 「贅沢を言わなければ、なんとかなるさ」 「まったくなあ、汚職ばっかしてやがって、日本の政治家にも困ったもんだ」  グラスの氷がごろんと鳴り、杉森の言葉が、頭の中を上滑りに通りすぎていく。 「杉森は、なにをやってるんだ」 「くじらのブローカー」 「なんのブローカー?」 「鯨」 「水族館関係か」 「冗談を言うなよ。ふつうに食う鯨の肉さ。ノルウェーや香港から密輸もんが入ってくる」 「変わった仕事だな」 「グリーンピースだとか環境保護団体とか、馬鹿なこと言うけどよ。鯨を食うのは日本の文化だもんな。外国人に因縁つけられる筋じゃねえよ」  酔いが回って、小柄な杉森の顔が、奇妙に膨脹して見える。 「日本人に鯨を食うなと言うのは、アメリカ人に牛肉を食うなと言うようなもんだぜ。日本人はみんな頭に来てる。だからパチンコの景品買いと同じでな、警察だって本気で取り締まりはしねえのさ」  そういえば杉森の家は、近くで魚屋をやっている。鯨の輸入をしているのは、家の仕事と関係でもあるのだろう。中学の同級生が鯨のブローカーになっていたり、別れ話のもつれから女に毒を盛られていたり、そうやって時間は、確実に移行する。  店に新しい客が入ってきて、離れた席に座り、ポップスだった有線の曲が軽快なハードロックに変わる。 「あ、そうだ、晴川……」  グラスにウイスキーを足し、ネクタイを弛《める》めて、杉森が丸椅子を軋らせる。 「フリーターやってるなら、おまえ、俺の仕事を手伝わねえか」 「鯨のブローカーをか」 「いい金になるぜ。警察も黙認してるし、香港マフィア以外にやばい連中とも係わらねえ」 「香港マフィアは、じゅうぶん、やばい」 「通常の商取引なら問題はねえよ。それにアメリカ人だとかフランス人だとか、ああいう連中に一泡吹かせるんだ。俺たちは日本文化の代表でもあるわけさ」 「意義のある仕事だな」 「そう思うか」 「そう思う」 「それじゃ手伝え。同級生のよしみだ。商売のノウハウを一から教えてやるぜ。なにしろ鯨を食うのは、日本の伝統文化なんだからよ」  杉森の差し出したグラスに、感動もなく、ぼくが自分のグラスを合わせる。頭の中をギターのハードロックが跳びはねる。氷原をアザラシ皮のカヌーが漕ぎ出し、舳先《へさき》に立ったぼくは銛《もり》を構えて、顔に不敵な笑いを浮かべはじめる。 「杉森。エスキモーはなぜ、鯨を捕っていいんだ?」 「知るもんかよ。アメリカ人が勝手に決めたんだ。やつらはなんでも勝手に決めるからな」  一面が雪と氷の白い世界で、氷点下の空気がぱりぱりと音をたてる。ぼくは相変わらず銛を構えていて、氷の割れ目から躍りあがるはずの鯨を、息を殺して狙っている。カヌーに乗っているのはぼく一人だけ。茫漠とした陰影のない風景の中に、不安や後悔のない静けさが横たわる。氷が盛りあがり、飛沫が散って、白い仔犬が跳びはねる。氷原の彼方を銀色のジョギングスーツが走り去る。構えていた銛が重くなって、自分の無力さに、ぼくは声を出して笑う。 「グリーンピースなんかにぺこぺこしやがって、日本の政治は腐り切ってるぜ」  戻ってこないことを知りながら、目の中に、ぼくはまだ銀色のジョギングスーツを追いつづける。 「ああ……そうだよな」 「そうさ。悪いのはみんな政治家なんだ」 「やっぱり、そうだよな」と、有線のギターを聴きながら、欠伸をかみ殺して、ぼくは一人ごとを言う。「この曲、やっぱり、エリック・クラプトンだよな」     *  星は見えないし、ネオンサインも街路灯も、しけっぽい空気の中に固い輪を引いている。公孫樹《いちょう》の枝はクルマのライトで絵画的にそびえ立ち、密生した檜葉《ひば》垣からは常緑樹の青い匂いが濃く流れてくる。本屋もパチンコ屋もパン屋もレンタルビデオ屋も、商店街は三分とつづかず、バス通りから脇道に入って、ぼくは家の近くまで歩いていた。自分の重心がどこにあるのか、意識は呆れるほど浮遊して、微熱のような興奮が薄く皮膚の表面を熱くする。欺瞞的な冷静さが、頭の上で執拗にぼくを観察する。  なんの目的で帰ってきたのか、理屈はなかったが、行くあてのない感情が唯一行きつけるのが家だとしたら、自分に家があるということは、たぶん、いいことなのだろう。  門をくぐり、玄関灯のついたガラス戸を開け、コンクリートの三和土《たたき》にベージュ色のハイヒールが目に入って、ぼくは拡散していた日常を、慌てて意識の網で掬い取りはじめた。ハイヒールは爪先の尖った華奢な形で、踵に崩れはなく、細い爪先を道路側に向けて整然と並んでいた。お袋がデパートのバーゲンで買ったとしたら、爪先の向きが逆だろう。姉貴のハイヒールにしては踵が高すぎる。それに姉貴なら、色も形も、たとえ男が変わってもこういうシンプルな靴は選ばない。空白が支配していたぼくの集中力に、否定的な予感が、突然、圧倒的な迫力で襲いかかる。そのとき居間の襖《ふすま》が開かなければ、自分の予感に押し倒されて、ぼくは玄関の三和土に座り込むところだった。  ぼくの前に現れたのは、予感のとおり、目に冷たい表情を浮かべた、白いスーツ姿の小谷さんだった。視線が合ったとき、小谷さんの赤い唇が微笑んだ気がしたが、それが頬にかかった髪のせいか、玄関灯がつくった影なのか、確認はできなかった。  小谷さんが正面に顔を向けたまま、ハイヒールに足を入れ、コートとハンドバッグを抱え直しながら、化粧品の匂いと一緒にぼくの顔を覗きあげた。 「ご免なさいね。あれからまた、気が変わったのよ」 「そうですか」 「お母さまには、本当のことを、みんなお話ししたわ」 「そう、ですか」 「あなたとは長いお付き合いになるわけだし、これからも仲良くしましょうね」  開いたままの玄関から、小谷さんが鮮やかに靴音を響かせていき、夜が大きく歪んで、写真のネガが変色していくように、白いスーツが残像を引いて闇に紛れていった。  ぼくはしばらく、だれもいない門の辺りを茫然と眺めていたが、風の音で我に返り、ガラス戸を閉めて、襖の間から居間の中をそっと覗いてみた。火燵にはお袋が一人だけ、横座りに背中を向けていた。テレビには画面も音もなく、濁りのある脆い空気が蛍光灯の光に白々と反射している。茶箪笥も仏壇も空気の重さに喘いでいるようで、ぼくが一歩踏み込めば、ガラスが割れるように、すべての構図が一瞬に崩れてしまいそうな、怖くて危ういバランスだった。  お袋が頭を動かし、火燵を支えに壁の時計をふり返ってから、肩をすくめるようにすり足で戸口に歩いてきた。どういう感情があるのか、お袋の表情は、不可解なほど穏やかだった。 「あら、シロウ、今夜は早いじゃない」 「九時だから、早くはないさ」 「あなたにしては早いわよ。雨でも降るんじゃないかしら」  戸口でお袋と躰を入れかえ、居間に入って、茶箪笥の角に、ぼくは背中で寄りかかった。 「小谷さん、なにを話していったの」  敷居の向こう側に立ったまま、お袋がおかっぱ[#「おかっぱ」に傍点]の髪を振り払い、睫《まつげ》と目尻の小皺を、不釣り合いに震わせた。 「シロウ、その袋はなあに」 「柴又の煎餅」 「柴又なんかに行ってきたの」 「ちょっと、散歩にさ」 「わたしにくれない? 電車の中で食べるわ。余ったら実家へのお土産にする」 「母さん……」 「静岡に帰ります。お父さんにそう伝えてちょうだい」 「父さんも、すぐ、帰ってくる」 「だから厭《いや》なの。顔を見たくないの。分かるでしょう? あなたたち、シロウとお父さんと喜衣と、三人でわたしを騙していたんじゃないの」  お袋の口調は冷静で、視線は動かず、頬にも首筋にも、血の気は感じられなかった。 「騙すつもりは、なかった」と、膝の震えを抑えながら、ぼくが言った。 「結果が出てからでは遅いの。わたしにも耐えられることと、耐えられないことがあるの。いつかはこういうことになるような、厭な気がしていたわ」  ぼくの手から煎餅の袋を受取り、寝室のほうに歩きながら、お袋が歯痛でもこらえるような顔で、静かにふり返った。 「夕飯の支度はしてないけど、あなたたち、だれも困らないわよね。気の合う人同士で、あとは好きにやったらいいわ」  お袋が寝室に消え、蛍光灯だけが白く光る廊下を見つめたまま、仕方なく、ぼくは茶箪笥に寄りかかっていた。寝室からは畳のこすれる音や、敷居の軋む音が聞こえ出す。押し入れを開けたり衣装箪笥を掻き回したりしている物音であることを、目の前の風景を見るように、ぼくはしっかりと頭の中で観察していた。寝室に駆け込む意思はあったが、予想される言葉の無意味さに、足のほうがどうしても、居間から離れようとしなかった。  十分か、二十分か、たいした時間はかからなかった。寝室のドアが開き、セーターにジャケットを引っかけたお袋が、コロのついたトランクを押して姿を現した。スカートは普段着のままで、肩にはいつか通信販売で買ったという、黒い旅行鞄がかかっていた。  玄関まで黙ってトランクを押し、あがり口で足を止めて、腰を屈めるように、ちょっとお袋がふり返った。 「気に入っていた鞄、喜衣の病院に置いてきてしまったわ」 「母さん、これからその荷物を運ぶのは、無理だ」と、戸口まで歩いて、寒気を抑え込みながら、ぼくが言った。 「自分では運ばないわ。シロウ、あなた、明日も暇なんでしょう。このトランクを宅配便で送ってちょうだい。それぐらいの義理はあるはずだものね」 「冷静に、なったら?」 「いやなことだわ。こういう侮辱をされて、冷静になんかなりたくないの。あの人が帰ってきたら言ってちょうだい。静岡にはぜったい、電話をしないようにって」  靴箱を掻き回し、茶色のパンプスを取り出してから、息の音と一緒に、お袋が首を振って三和土に足をおろした。 「喜衣のことはお願いね。それにしても新幹線ができて助かったわ。これが昔なら、静岡まで、五時間はかかったのに……」  簡単に玄関の戸が開き、簡単に閉まって、居間と玄関と台所の明かりの中に、気がつくと、ぼくは簡単に放り出されていた。明白な無人感に現実が自覚できず、子供のころの迷子の記憶だけが、音のない映画のように、頭の中を騒然と漂っていた。  襖の敷居が軋んで、明るすぎる照明と残されたトランクが、いやがるぼくの意識に、お袋の不在を駄目押しで認識させてきた。ぼくは背中の悪寒を、肩で振り払い、居間のまん中に戻って、お袋が座っていた火燵に脚を伸ばした。座布団の温かさとヒーターの熱が、背中にいやな悪寒を引き戻す。ぼくは肩をすぼめて、意味もなくテレビのリモコンに手を伸ばした。向こう側には受け皿つきのティーカップが置かれているが、口をつけた跡はなく、角砂糖も形を崩さずに残っていた。  電源の入ったテレビではサッカーの試合を映していて、得点でも入ったのか、不潔そうな選手が宙返りをうってインディアンダンスを踊っている。昔は親父とナイター見物にも行ったし、姉貴とプロレスを観に行ったこともある。野球にもプロレスにも相撲にも、一度として、ぼくは熱狂を感じなかった。カメラだってみんなは『狂っている』と言うが、ぼく自身は狂った覚えも、熱中した覚えもない。二十二年も生きてきて、人とか物とか、音楽とか映画とか、なにか自分以外のものに夢中になったことが、一度でも、ぼくにあったろうか。  テレビから流れるアナウンサーの絶叫と、観客の喚声と、壁からの時計の音と火燵のサーモスタットの音と、すべての音が和音になって聞こえている。それでいて部屋の中は静かで、唯一自分の耳鳴りが上半身のどこかで、音楽のように喧しかった。  雨戸を閉めようと、立ちあがり、その瞬間急な悪寒が頭を突き抜けて、痛みを伴った嘔吐感が、胃の深い部分から猛烈に這いあがってきた。自分の躰に起こった混乱が、とっさには理解できなかった。貧血のはじまった目で、歪む天井や色をなくしていく壁を、ぼくは唖然と凝視した。嘔吐感は悪意のように胃を突きあげ、執拗なぼくの常識が、ぼくの躰を台所へ突進させた。椅子にぶつかり、食道は我慢を放棄し、熱い酸性の嘔吐物が、胃の内側から一気に流れ出す。嘔吐物は際限もなく床を汚しつづけ、ぼくの目から視覚を奪って、鼻腔に圧倒的な異臭を押しつけた。濃い粘液が喉を焼き、胃は好きなように反転し、ぼくはどこまでも無抵抗で、ただひたすら、意地もなく躰の反乱を呪いつづけた。自分の神経がなにを勘違いしているのか、最後まで、ぼくには、どうしても理解できなかった。  胃がやっと痙攣をあきらめ、躰の違和感が寒気と貧血に変わって、流しの縁に手をかけたまま、ぼくは無理やり深呼吸をした。目には悲しみとは無関係な涙がにじみ、鼻水がだらしなく滴って、酸性の息だけが、浅く、間欠的に肺から吐き出されてくる。胃も腸もからっぽで、怒りも屈辱も、ぼくは何もかもからっぽだった。  どれほどの時間がたったのか、考える気力はなかった。それでも床は汚れていて、ぼく自身も惨めに汚れていた。ぼくは水道の蛇口をひねって、顔を洗い、水を流したまま、洗い槽の汚物を素手で排水孔に掻き集めた。それから布巾で流しの汚れを拭き、床に屈んで散っている嘔吐物の残りを拭き取りはじめた。点や染みや塊は、赤かったり青かったり、固かったり柔らかかったり、昼間のもんじゃ焼きが未消化のまま飛び出している。  草の匂いとウミネコの鳴き声と、マガモの羽音と乳灰色の空が、不自然なほど鮮明によみがえる。拒否していた感情の中に、本物の涙が、無慈悲に流れ込む。腕が震え、膝の力が抜けて、もうぼくは、見栄もなく、ただ床に座り込んだ。コンクリートのベランダから熟した柿の実が見え、黒縁の眼鏡をかけた親父がぼくの三輪車を押し、路地に蹲《うずくま》っているぼくの頭を、迎えにきた姉貴が冷たい手で抱き寄せる。明るい砂場には巨大なゴミ虫が蠢き、ぼくより背の低いお袋が、強い力でぼくを掬《すく》いあげる。松五郎は首に黄色いバンダナを巻いていて、不思議そうな目でぼくの顔を覗き、氷原の遥か遠くを、銀色のジョギングスーツが手の届かない速さで疾走する。大きな空白に向かって、声を出そうとするが、その瞬間にはもう、ぼく自身が空白の中に溶け入っている。  怒りではない、悲しみではない、絶望ではない何かの感情が、体臭を発散させながら、どこまでもぼくを追いかけてくる。十一月の土曜日の、蛍光灯だけが明るい床に蹲って、汚れた布巾を握りしめ、生まれたばかりのぼくは、いつまでも希薄な涙を流しつづける。 [#改ページ]     8  自転車の細いタイヤが、ポプラの枯葉をぱりぱりと踏んでいく。凍るほどの空気が透明に立ちふさがり、息が白い粒になって耳のうしろを流れ去る。月が変わってから突然やって来た冬は、ぼくに革のコートを着せ、首には毛糸のマフラーを巻きつけた。朝の早い勤め人が灰色の道を浦和の駅に向かい、その横をぼくの自転車が東浦和の方向から追い抜いていく。まだ朝日が顔を出す時間ではなく、葉を落とした並木や中学の校舎が、清潔な灰色の中に気持ちよく息をひそめている。コンビニの夜勤も製本屋のアルバイトも、疲れるのは躰だけで、精神が消耗しない実感が無邪気にぼくを勇気づける。  太田窪の家につき、自転車を門の内側に放り込んで、郵便受けから新聞を抜き出す。自分の鍵で玄関を開けて、いつものとおり居間の雨戸を開ける。庭に白い寒椿を確かめてから、ファンヒーターのスイッチを入れ、コートを着たまま手と足を暖める。アルバイトのはしご[#「はしご」に傍点]で指先は荒れているが、カメラに手を触れなければ日常生活に困ることはない。昼と夜が逆になって、毎日が睡眠不足ではあっても、この時間が死ぬまでつづくわけでもない。  十分ほどで部屋の空気が暖まり、ぼくはコートを脱いで火燵のスイッチを入れ、ついでに居間と台所の電気をつけて回る。結露で曇っているガラス戸にも朝日が射し、塀を通してクルマやオートバイの音も伝わってくる。裏の家でも雨戸を開けているようで、冬の一日が、おっとりと始まっていく。  台所の洗い槽にはうんざりするほどの食器が放り込まれている。とにかくそれを片付け、電気釜が『保温』になっていることを確かめてから、ぼくは冷蔵庫のドアを開けて、野菜室とチルド室を点検する。たいしたものは残っていないが、チルド室から鰯《いわし》の丸干しを出し、野菜室からも大根となめこ[#「なめこ」に傍点]と納豆を取り出した。そろそろ卵もなくなるから、今日はスーパーまで買い出しに行く必要がある。  鍋に味噌汁の水を計って、火にかけ、大根を千切りに刻みはじめたとき、階段にスリッパの音が響いて姉貴がおりてきた。キルティングのガウンで重武装し、指先で激しく顔をマッサージしている。髪の毛は阿修羅《あしゅら》のように乱れていて、目蓋も腫《は》れぼったいから、昨日も道徳的な一日ではなかったのだろう。 「姉さん、今朝は早いんだな」 「八時半までに大宮へ行くのよ。ちゃんと言ってあるじゃない」 「そうだったかな」 「わたしは冗談で恋はしないの。なんでもいいから、シロウ、コーヒーをいれてよ。それからハムエッグにトースト。トーストは一枚でいいわ」  台所を一気に通りすぎ、姉貴が洗面所に消えて、仕方なく、世界が忙しくなる。そういえば昨日か一昨日、大宮からのリムジンで成田に行くとは言っていたが、その無茶な計画を、ぼくは本気に聞いていなかった。金曜日に日本を出て、月曜にはもうハワイから帰るという。恋愛の本質はやはり体力らしかった。  洗面所で朝シャンの音が盛大に響く間、ぼくはコーヒーをセットし、スライスのハムと卵をフライパンに入れ、少し固くなっているパンを一枚、トースターに放り込んだ。シャワーの音がドライヤーの音に変わって、テーブルに支度が整ったころ、すっかり人相を変えた姉貴が泰然と台所に戻ってきた。ハワイの別荘に姉貴を誘った森海生は、まだ寝起きの顔は見ていないのだろう。 「ねえ、最近、ばかに寒いわねえ」と、台所のテーブルに新聞を開きながら、コーヒーを一口すすって、姉貴が言った。「気象庁も無能よねえ。先月までは暖冬だと言ってたくせに、うちの雑誌で叩いてやろうかしら」 「ハワイに行くような人は、他人に優しくするべきだ」と、大根を刻みながら、ぼくが答えた。 「そうか。彼と結婚したら、ハワイの別荘もわたしの物になるんだわ。ちょっと背は低いけど、彼なら外聞だって悪くないしね」 「姉さんが幸せになるなら、なんでもいいさ」 「わたしも不幸な恋をしてきたものねえ。そろそろ幸せになっていいころだわ。そうなったらシロウ、あんたもハワイに遊びに来ていいわよ」  話がうますぎる気はするが、だれにだって幸せになる権利はある。幸せになる過程も方法も、人によって、それぞれ違っている。高橋さんとのトラブルが姉貴の納得する方向で収まったのなら、他人が文句を言う筋合いもない。森海生だって子供ではないし、姉貴にこのまま押し切られるとも思えないが、恋についての評論なんか、ぼくに出来るはずはないのだ。姉貴も二十七年間|研鑚《けんさん》を積んできたわけで、その成果を、このへんで大きく花開かせたいところだろう。 「もうこんな時間か。忙しいわねえ。やっぱりあの入院で有給を取りすぎたわ」 「支度は?」 「バッグ一つだけ。水着も洋服も向こうに行ってから買うわ」 「ハワイにいるのは、一日だけだろう」 「シロウねえ、男と女の関係ではその一日が大事なの。時間ではないの。問題は中身の濃さなのよ」 「そういう、もんかな」 「そういうものよ。あんたにもそのうち分かるようになるわ」 「帰りは、月曜の、いつ」 「朝には成田につく。でもそのまま会社に出るから朝飯は要らない。それにしてもあんた、目玉焼きを作るの、うまくなったわね」 「そうかな」 「お土産にスウォッチでも買ってきてあげるわ。ダイバーズがいい?」 「なんでもいいよ」 「張り合いのない子ねえ。どうでもいいけど、とにかく頑張りなさいよね。わたしもきっちり頑張ってみせるわ」  姉貴が皿にフォークを放り出したとき、居間のほうから親父が入ってきて、綿入れの肩を揺すりながら寡黙にトイレへ歩いていった。姉貴が起きていることに文句はなさそうだから、今日のハワイ行きは了解済みということだ。 「さて。じゃあシロウ、あとは頼んだわ。わたしは気合いを入れて、ぱっと出かけますからね」  ぱっと椅子を立ち、姉貴が忙しなくガウンをひるがえして、ほんのしばらく台所に静寂が戻ってきた。親父がトイレから出てきて、綿入れの袖で腕を組みながら、低く唸ってテーブルの前に立ち止まる。 「喜衣にも、まったく、困ったもんだ」 「うん?」 「前から言ってるのに」 「なんのこと」 「新聞を読みながらトーストを食われたら、あとの人間がたまったもんじゃないぞ」 「味噌汁に、卵、入れる?」 「要らん。コレステロールに用心してるんだ」  新聞からパンくずを払い、それを居間に持っていって、火燵に座り込み、テレビのリモコンを取りあげながら、親父がのんびりとタバコに火をつけた。うすい煙が光の中で波形の模様をつくり、白く輝きながら台所に流れてくる。テレビでは早口に朝のニュースが吐き出され、二階の部屋からは姉貴がトンボ返りでもうったような、著しい奮闘の音が響いてくる。一ヵ月前の朝も似たようなものだったし、一年前も、十年前も、朝はいつでも、こんなようなものだ。  木の盆に親父の膳《ぜん》をつくり、居間まで運んでから、ぼくは自分の食器を台所のテーブルに並べ、横目でテレビを観ながら食事をとり始めた。親父には朝飯でぼくには夕飯になるわけだが、会社に行ってしまう親父に、そんな区別がつくはずもない。毎朝火燵に朝飯が運ばれる事実にも、たいして疑問は感じないようだった。 「プロ野球がないと、朝のニュースもつまらんなあ」と、箸を動かしながら、ぼんやりとテレビに目をやって、親父が言った。「サッカーなんぞルールも分からん。それに俺は、チェアマンとかサポーターとかいう言い方が嫌いだな。頭の悪いやつに限って実態を言葉で誤魔化そうとする」  それほど大げさな問題でもないだろうが、黙ったままでは消化が悪いのだろうし、親父なりに、ぼくに対する気づかいもあるのだろう。日本中のおじさんに『サッカーはつまらない』という共通の話題を与えてくれるだけで、サッカーにも存在意義はある。 「ほうう、そうか。寒冷前線が南下してきて、東北は大雪になるそうだ」 「冬用のコート、着がえはあるの」 「箪笥のどこかに入ってるはずだ。無ければ新しいのを買う」 「味噌汁、まだあるから」 「その、なんだな、政治改革というのも、官僚の既得権にメスを入れんと、根本的な解決にはならんなあ」 「昨日、米屋さんが電話をしてきた」 「ほうう」 「正月の餅をどうするかって」 「そんなことは知らん。いつも通りでいいじゃないか」 「いつも通りで、ね」 「日本の農政にも困ったもんだな。消費者優先という原則が、役人にはどうしても理解できんらしい」  階段に軽快な足音がして、目が醒めるほど口紅を塗った姉貴が、ワンレングスの髪を掻きあげながら顔を居間に突き入れた。姉貴はそのまま、手を大きく振っただけで玄関に姿を消し、なにを頑張るのか知らないが、揚々とハワイに旅立っていった。入院で有給休暇を使いすぎたことだけが、唯一、姉貴の後悔なのだろう。 「なあシロウ、この不景気は、どうやら来年もつづくらしいぞ」と、新聞に目をやったまま、胸の前に味噌汁の椀を構えて、親父が言った。 「そう」 「経済メカニズムの問題ではなくて、消費マインドの問題なんだな。その底辺には国民の政治不信があるわけだ」 「本当に餅、いつもの通りでいいの」 「なんだ?」 「母さんがいなければ、餅を買っても仕方ないだろう」  親父がなにか唸り、リモコンで、二、三度テレビのチャンネルを切りかえた。 「小谷さんとの話は、どうなったのさ」 「努力はしてるんだが、どうも、思ったより手強い」 「長引くと母さんも帰りにくくなる」 「それは、まあ、そうだ」  音をたてて味噌汁をすすってから、なめこ[#「なめこ」に傍点]でも喉に詰まったように、親父が咳払いをした。 「昨日も会社から電話したんだがな。声が分かったとたんに、切られた。母さんがあんなに強情な女だとは思わなかった」 「強情ではない女の人なんか、どこに居るのさ」 「おまえに言われる筋ではないんだ。分かっていても、つい顔に騙される」 「小谷さんと別れることは決めたんだろう」 「父さんのほうは決めている。最初にそう言ったろう」 「あとは、誠意かな」 「誠意はあるじゃないか。しかし母さんも小谷紀代子も話を聞こうとせんのだから、誠意の見せようがない」  鰯を丸ごとかじって、骨を味噌汁で飲みくだし、親父の頭ごしに、ちょっとぼくは庭の日射しに目をやった。 「父さん、パフォーマンスも必要さ」 「なんのことだ」 「誠意を表現する様式。電話がだめなら直接静岡に行く」 「そういうのを、パフォーマンスというのか」 「力強い表現が必要だということ」 「おまえ、近いうち、暇はないか」 「ないよ」 「俺が行くより……」 「忙しいんだ」 「しかしこのままでは、シロウだって困るだろう」 「ぼくの問題ではないんだ。父さんの問題さ。母さんが帰ってこなくて、ぼくが家を出て姉さんが結婚でもしたら、父さん、一人でやっていけるの」 「そうなったら、そのときに考える」 「小谷さんは当てにできない」 「言われなくても分かってる」 「それなら早く決めるさ。二回も、まぐれで、若い女の人にはもてないよ」  親父が箸を持ったまま、またリモコンを切りかえ、汁椀を取りあげながら、面倒臭そうにため息をついた。夫婦には子供でも理解できない絆があるらしいから、親父もそれに期待しているのだろうが、絆が太いのか、細いのか、そんなこと、結果を見なければ分からないではないか。 「まあ、なんだな、明日は土曜日だし、静岡に出かけてみるかな」 「それがいいね」 「六十にもなって女房の実家に頭をさげるのも、体裁は悪いがな」 「割り切るしかないさ」 「しかし、母さんにも小谷紀代子にも、困ったもんだ」 「パフォーマンス」 「パフォーマンスなあ。それじゃまあ、そういうことにしておくか」 「味噌汁、飲む?」 「もういい。茶をいれてくれ。それにしてもシロウ、今年の鰯は脂がのって、いい味を出してるじゃないか」  ぼくはもう、それ以上親父にはつき合わないことに決め、煎茶を入れてから、自分の食事を先に済ませることにした。いつもなら夕方まで寝ていられるが、今日は食料の買い出しもあるし、洗濯物だって溜まっている。 「父さん。ワイシャツのクリーニングは、自分で出してよ」 「分かってる」 「膳は片付けなくていいから」 「ああ」 「電気毛布のスイッチは切ったの」 「切った」 「夕飯に食べたいものは?」 「酢ダコ」 「出かけるとき、タバコの火には気をつけて」  まったく、家事というのは、やらなくても死にはしないが、だれかがやらないと、簡単に家庭を崩壊させてしまう。 「パフォーマンス……か。なるほどなあ。面倒なことだが、誠意を説明するにも、そういう横文字が必要な時代ということだな」  親父が会社に出かけたのは、それから三十分してからで、ぼくは風呂のあと洗濯物を庭に干し、家中の鍵を閉め直して、どうにか自分の部屋に引きあげた。目眩がするほど疲れてはいたが、親父のパフォーマンスに期待して、猛然とベッドに倒れ込んだ。毎日夢も見ずに眠ることに、気持ちのどこかが後悔を感じたとしても、今のぼくにはこの眠り方が、一番似合っている。     *  冬至までには、まだ二週間もある。それでも四時になると日はビルの根元まで落ちきり、空を夕焼けに染めるだけで地面までは照らさない。赤羽の駅前も景色を冬の装いに変え、ロータリーには枯葉が飛んで、乗降客もダウンジャケットやトレンチコートに固く身を包んでいる。水の枯れた噴水には欅《けやき》の厚い落葉がたまり、ベビーカーを押す母親は毛糸の手袋で武装している。まだ始まったばかりだというのに、これほど大げさな警戒を受けたら冬のほうが赤面してしまう。気候は混乱していても、東京に本物の寒さがやって来るのは、まだ一ヵ月も先のことだ。  ぼくは駅前の風景を、遠い気持ちで眺めてから、腋の下に紙袋を抱えなおし、活気のない商店街を岩淵町の方向に歩きはじめた。道順も分かっていて、いくつかの商店には見覚えもあったが、感動のない空気と疎外感は、まるで初めての町のようだった。  地下鉄の岩淵町駅が見え、環八通りを赤羽三丁目側に渡って、路地から小学校の塀につき当たり、記憶にあるとおりの、小さくて細長いアパートの前に出る。階段下の郵便受けには懐かしい丸文字が浮かび、建物の隙間を寒い風が吹き抜ける。冬休みでもないだろうに、小学校は校庭も校舎も閑散としていて、幻の町に立っているような、不安な錯覚に襲われる。  階段の下から、そこで雨宿りをしているぼく自身を追い払い、気持ちを落ち着かせて、ゆっくりとその階段をのぼっていく。白いモルタルは記憶にあるより汚れていて、階段も外廊下も狭く、台所の窓も化粧ベニヤのドアも、呆れるほど貧弱だった。諦めに似た感慨が、和音のように背中を通りすぎる。心の振れを抑えて、ドアをノックする。留守であることは勘でも分かるが、気持ちを納得させるために、もう一度ノックし、それから、持ってきた紙袋をドアにもたせ掛ける。  外廊下を階段まで戻り、腕時計を覗いて、思い直し、苦笑を追い払いながら、ドアに歩いて紙袋を取り返す。階段の下にはトラ猫が蹲《うずくま》っていて、それを避けながら、ぼくは小学校の塀に沿って風上に歩き出した。路地の奥から静かに犬が鳴いて、重そうな鞄を持った女子中学生が顔をうつむけて通りすぎる。小さい鉄工所にバーナーの火花が散り、建築現場では積まれた資材に腰をおろして、イラン人がタバコを吸っている。風景は心地よく安定しているのに、アスファルトを踏むぼくの足だけ、ぼく自身の現実感から、力なく遊離する。  新河岸出の土手が見え、クルマの多い通りを横切って、直接土手をのぼり、視界の開けた冷たい空気の中で、意識的に、ぼくは深呼吸をした。テニスコートは喚声と白いウエアが賑やかで、遠くの新荒川大橋には夕方のクルマがスローモーションのように渋滞している。鉄橋を特急電車がベージュ色に走り去り、小さいベンチに年寄りが一人、自転車を止めて腰をおろしている。  ぼくは景色を記憶の中で確認しながら、土手を上流に歩き、新河岸川の歩行橋を渡って、分厚くそびえる荒川側の土手に出た。視界は明確に幅を広げ、遮るもののない夕日が真横から対岸のビルを照らしている。コスモスの咲いていた公園は枯草色に沈み、ヨモギもセイタカアワダチ草もすべてが枯れて、土手の芝生だけが着色でもしたように、人工的な青さを残している。  北からの川風に頬を晒しながら、ぼくは夕焼けが鉄橋の影を引く土手を歩いて、広すぎる風景を背負ったまま、枯れ残る芝生の上にぼんやりと腰をおろした。四面の野球練習場にはどこにも人がいて、ユニフォームを着た素人選手たちが広いグラウンドを持て余している。工事のつづいている対岸のスカイタワーは、西面だけ見事な夕日に染め、風を切るように毅然と他のビルを圧している。雑草が枯れ、コスモスが枯れ、トンボやバッタがいなくなった以外、一ヵ月前と、この風景は、どこに変化があるのだろう。  視界のすぐ下を自転車が通り、犬や人が通り、運動部員らしい高校生が集団で土手を走り、野球場の一面では試合が終わって、そのとき、新荒川大橋の向こう側から、銀色のジョギングスーツが忽然と現れる。腰の高い安定したフォームは他のランナーを背景のように置き去り、清潔な夕日を受けて、怖くなるほどのスピードで近づいてくる。ぼくは草の上から腰をあげ、コートのポケットに両手を入れたまま、ジョギングスーツが大きくなってくる圧迫感に、膝を伸ばして身構えた。空気はアコーデオンのように伸縮し、野球場の喚声が消え、風の音も鉄橋を走る電車の音も、ぼくの意識から、礼儀正しく消えていく。  百メートルほど離れたところから、山口明夜がスピードを落とし、途中からは歩く長さに歩幅を変えて、土手の中心線をまっすぐに近づいてきた。この緊張感に耐えられるのか、自信はなかったが、心音は不思議に冷静で、山口明夜の風に乱れる髪や夕日に目を細めた眉を、ぼくは単調に見守っていた。顎の線が少し鋭くなり、目蓋の脂肪も落ちて、上気している頬は湯あがりの少年のようだった。これだけのシャッターチャンスにカメラを持っていない自分に、それでもぼくは、まるで未練を感じなかった。  山口明夜が、なんのつもりか、両手を揃えて深く頭をさげ、ぼくも声を出すことを忘れて、うっかり、深々と頭をさげた。遠くのほうでカモが下品な声で鳴いたが、山口明夜は表情を変えず、明るさを増した正面からの夕日に、淡々と目を細めつづけていた。 「君、やっぱり、本物なんだな」と、山口明夜の呼吸が見えるところまで、ゆっくりと歩き、夕焼けに染まった額の汗を眺めながら、ぼくが言った。「ぼくから見ても、走り方が他の人とはちがう」  視線を逸らしただけで、返事はせず、山口明夜が襟の下から縞模様のタオルを抜き出して、首筋に流れる汗を大きく拭き取った。頬も上気して汗も滴っているが、あれだけ走ってきて、息は少しも乱れていなかった。  見渡しても、土手の見える範囲に手塚さんの姿はなく、ぼくは抱えていた紙袋を差し出しながら、一歩、山口明夜に近づいた。 「高田馬場で会った日の、君の写真だ。犬に向けてシャッターを切ったら、偶然君が写っていた」  もちろん嘘で、あのときぼくは意図して山口明夜にピントを合わせたのだが、そんなこと、どちらでも同じことだ。写真はベンチに座っている山口明夜と、足元のパピヨンが向かい合っている構図で、週刊誌の見開き大に引き伸ばしたものをパネル装丁してあった。  山口明夜が素直に受け取り、大股に草の上を歩いて、夕日を避けるように、タオルを首に巻きながら土手の縁に腰をおろした。対岸の河川敷はテニスコートになっていて、視線の向かう先には山口明夜のアパートもあるはずだった。 「本物のわたしより、奇麗に写ってる」と、袋からパネルを取り出し、腕の長さに写真をかざしながら、山口明夜が言った。 「写真だからな」と、ポケットに手を入れたまま、ぼくが答えた。 「写真でも嘘はいけないわ」 「罪になるほどでは、ないさ」  山口明夜の右側に、少し離れて座り、テニスコートのざわめきを眺めながら、草の匂いにむせそうになる息を、ぼくは静かに我慢した。 「君、ちょっと、痩せたかな」 「五キロ」 「そんなに」 「二年前の体重に戻っただけ」 「マラソン、本気で、始めるんだ」 「器用に生きられないの。他のこと、なにをやっても楽しくないしね」 「この前は余計なことを言いすぎた」 「自分でも分かっていた。だから腹が立ったの。われながら可愛くない性格」 「煎餅は、食べてしまった」 「わたしはカーテンのお礼を言い忘れた」 「今、二つ、バイトをやってるんだ」 「そう」 「来年の春までやって、金を貯めて、アフリカに行く」 「写真のため?」 「そうでもない」 「旅行?」 「人間が生きることの意味を、ちゃんと確かめたい。確かめてどうするかは、分からない」  山口明夜が額から濡れた髪を振り払い、ジョギングスーツの胸に風を通すように、芝生に肘を張って、投げ出した脚を上下に組み合わせた。 「君から見たら、無意味に思えるだろうな」 「例の、あれでしょう」 「うん?」 「いつか言っていた、違和感のこと」 「ぼくにはまだ、自分のしたいことが分からない。人生に目的のない人間は、目的を探すことから始めるしか、仕方がない」 「それでアフリカ?」 「アフリカではないんだ。アフリカとかインドとかいう、場所ではない。自分自身に行きつけるか、行きつくことに意味があるのか、そういうことを、確認したい」 「疲れそうね」 「マラソンだって疲れるさ。でも君のように最初から目的のある人からは、ハンデをもらう」 「わたしは、気がついたら走っていただけ」と、タオルに顎の先を埋めて、うなずくように、山口明夜が言った。 「人間にはそれぞれ才能があるというけど、そういうのは、嘘だと思う。ぼくも含めてほとんどの人間には、才能なんかない。だからって、他人の才能を見物するだけの生き方では、自分が可哀相すぎる」 「あなたとつき合わなかったこと、やっぱり正解だった」 「そうかな」 「性格が面倒だもの」 「君は、素直すぎる」 「単純なのよ。わたしもね、沖縄に行くことに決めた」  岸の近くで枯れたススキが揺れ、テニスコートから白いボールが、夕日の中に大きくこぼれ出す。 「那覇のクラブチームで走るの。手塚さんが監督になって、誘われて、迷っていたけど、あなたに会ってから、決心がついた」  写真のパネルにビニールをかけ、紙袋の中に戻してから、もう一度タオルで汗を拭き、ジョギングシューズの踵《かかと》を立てて、山口明夜が深く、膝を自分の腕で抱きかかえた。姿の見えない太陽が土手の上に影をつくり、蹲った山口明夜は銀色の尾を引いて飛んでいく、小さい彗星のようだった。こんな華奢な指をした、薄い胸の体重の軽い女の子が、いつか本当に、世界一のマラソンランナーになってしまうのだろうか。 「君、走るときは、ピアスをしないんだな」と、芝生から腰をあげ、冷たさを増した風から目をかばいながら、コートのボタンを掛けて、ぼくが言った。「気がつくべきだった。やっぱりぼくは、血迷っていたらしい」 「なんのこと?」 「君のタバコ」 「タバコが?」 「二度目に会ったときは、もうやめていた。ぼくと知り合わなくても、君は走ることに決めていたんだ」  背中を反らし、山口明夜が空をふり仰いで、黒い点のように飛んでいく鳥に向かって、長く息を吹きかけた。答えを考えているのか、しばらく言葉は返ってこなかったが、そんなこと、考えなくても、本当は分かっていることなのだろう。 「いいんだ。返事をされても、ぼくが困る」 「晴川さん」 「うん?」 「どこかで、コーヒーでも飲む?」 「バイトなんだ。これから朝霞まで行く」 「朝霞って?」 「練馬のずっと先」 「大変ね」 「そうでもないさ。君、沖縄へは、いつ行くの」 「来月。今年じゅうにアパートを引き払って、お正月は故郷に帰って、そのあと」 「故郷、石巻だったよな」 「言ったかしら」 「聞いてはいないけど、君のことなら、なんでも知ってるんだ」  山口明夜も立ちあがり、紙袋を胸の横に抱えながら、肩をすくめて、はにかむように歯をこぼれさせた。目蓋に散った星のようなソバカスが、ぼくの見ている間に、少しずつ色を増してくる。あのとき、なぜデートの誘いを断らなかったのか、訊きたい気もしたが、我慢して、大人のように、ぼくは手を振った。 「写真、ありがとう」 「うん」 「わたしはもう少し走っていく」 「沖縄、暑いんだろうな」 「アフリカほどではないわ」 「気をつけて、な」 「晴川さんもね」  風がうしろから耳をかすめ、言葉がなくなり、自分の影を追うように、ぼくは歩いてきた土手を、歩行橋のほうに戻りはじめた。立ち止まりたい衝動はあったが、立ち止まっても意味はなく、ふり向くことにも引き返すことにも、なにも意味はなかった。太ったランナーが喘ぎながらぼくを追い越していき、鉄橋を水色の京浜東北線が、機械音を響かせて埼玉側に渡っていく。太陽は沈みきって、名残りの夕焼けが水面を平らに灸り、枯れたススキを風が執拗に揺らしていく。  サッカー場から引きあげる高校生が、まばらに歩行橋を渡っていて、そのあとから、ぼくもポケットに両手を入れて歩き出す。目の端を銀色のジョギングスーツがかすめた気もしたが、瞬きと同時に姿を消し、そして突然、駅のほうからクルマの騒音がよみがえる。  知らない町が、当たり前のような顔で、知らない町に返っていく。電車の窓からこの河川敷を見おろすことはあっても、もうぼくが、山口明夜を探すことはない。 [#改ページ] 底本 単行本 新潮社刊 一九九五年四月二〇日 第一刷